「もう空襲がない!」終戦時の喜びをたいせつにして生きたい

ユネスコで働くことは、私の夢でした。なぜそこで働きたいと思うようになったか。その原点は、疎開先で終戦を迎え、平和のありがたさをかみしめたことにあります。戦時中、両親の故郷である岩手県に疎開していた私は、「空襲が来そうだぞ!」という警報にびくびくしながらも友だちと遊ぶ日々を過ごし、アメリカ軍の戦闘機に追われたこともありました。そして国民小学校6年生のときに終戦となり、「これでもう、空襲がない!友だちと遊んでいられる!」と、大きな喜びを感じたことを覚えています。
そのときはただうれしかっただけですが、振り返ると、そのときの喜びが自分の体内に記憶されていて、「平和となったこの喜びをたいせつにできるような社会にしたい」という思いになったことが、私の人生を方向づけていったのではないかと思います。
私は岩手県から裸一貫で上京してきた苦労人の父と、その父をじっと支える母の間に生まれました。父は自分が苦労してきただけに、私が勉強するためには何でも自由にやらせてくれて、必ずサポートをしてくれました。そんな父に一度だけ、反対されたことがあります。「パリのユネスコで働く」という私の夢が実現しようというときに、「親の死に目にあえないようじゃ困る」とポツリと言ったのです。喜ぶと思っていただけにショックでした。
しかしその後、赴任が本決まりになる直前に父に手紙を書いたところ、今度は喜んで認めてくれました。20代の若者が異国に就職するというのは、当時の日本においては月に行くようなものでしたが、私がユネスコで働くということが、日本にとってどういうことを意味するのか理解してもらえたことが、一転して喜んでくれた理由のようです。後に家族から聞いたところによると、父は「なぜあのとき、最初に反対するようなことを言ってしまったのか」と悔やんだといいます。