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Vol.087 2022.03.25

ピアニスト
中川優芽花さん

<前編>

まずは行動して失敗して学ぶプロセスは
音楽にも勉強にも大切なもの
失敗しても、すべての経験は力になる

ピアニスト

中川 優芽花 (なかがわ ゆめか)

2001年ドイツ・デュッセルドルフ市生まれ。日本人学校を経て小学3年生から現地校へ編入。4歳でピアノを習いはじめ、10歳となった2012年から18年まで学校の勉強と平行してデュッセルドルフ市のロベルト・シューマン音楽大学のジュニアコースで学ぶ。高校時代にはイギリスで最も古い専門音楽学校The Purcell School for Young musicianに留学。現在はドイツのフランツ・リスト・ワイマール音楽大学在学中。2022年3月には日本でソロリサイタルを開催。

若手ピアニストの登竜門として知られるクララ・ハスキル国際ピアノコンクールにおいて、19歳で見事優勝された中川優芽花さん。「ここまでこられたのは、周囲の方々のおかげ」と感謝の気持ちをのべる中川さんは、ドイツで生まれ育ち、学校やピアノのレッスンに加え現地の公文式教室にも通われました。そこで身につけた集中力や理解力は、現在にも活かされているそうです。現在住んでいるワイマールの街が大好きという中川さんに、ピアニストを目指すまでの道のりのほか、街の魅力やドイツでの日常生活など幅広くうかがいました。

目次

バッハ、リスト、ゲーテ、シラー……
偉人たちに出会える歴史と文化の街ワイマール

中川優芽花さんワイマールの街中で(ゲーテ&シラー像)

私が住んでいるワイマールという街は、ドイツ中部のテューリンゲン州にあります。地図で見るとドイツのちょうど真ん中あたりです。ドイツといえばソーセージを連想する方もいると思いますが、中でもテューリンゲン・ソーセージは名物で、炭火で焼いたものが屋台で売られています。私も大好きです。こちらに来る機会があれば、ぜひ食べていただきたいですね。

通学しているフランツ・リスト・ワイマール音楽大学の目の前には、バッハの銅像があるほか、街にゆかりのあるゲーテやシラーなどの詩人、そしてもちろんリストなど、街中には文化を創り上げてきた方々の銅像があります。歴史の面影が色濃く残り、発展的とはいえないかもしれませんが、その分、人々は落ち着いていて優しくフレンドリー。小さな街なので、歩いていると同級生にバッタリ会うことも多く、そこでコミュニケーションが弾んだりします。

フランツ・リスト・ワイマール音楽大学は、ハンガリー生まれの作曲家フランツ・リストの後押しで1872年にできました。今年150周年を迎えるにあたり、いろいろなイベントが準備されています。校舎のたたずまいも歴史を感じさせ、内装は木をメインに使っていてとても雰囲気があります。

私はここでピアノを学んでいますが、室内楽に力を入れている大学なので、ピアノ以外の楽器を専攻する学生たちと接することも多く、お互いに知識を共有し、スキルを高め合うことができます。

大学は2学期制で、学期中にソロや室内楽のコンサートを行います。とくに室内楽は試験を兼ねたコンサートをすることが多いので、それに向けて室内楽を専門に教えていらっしゃる先生からもご指導をいただくことができ、いろいろな観点から学べることがこの大学のすばらしい点です。また落ち着いた環境で練習することができ、とても充実した日々を送っています。

ドイツの音楽大学は、必修科目もありますが、いつ習得するかは自分で決められ、自分で組み合わせて計画・管理します。私は集中できるという理由で、だいたい午後から大学に練習しに行くので、講義は午前中のものを選択することが多いです。大学近くの学生用アパートで一人暮らしをしているので、午前中は家の掃除など家事をしています。

毎日4時間ほどピアノを弾いていますが、気分転換として、友人とオンラインゲームをしたり、料理をしたりしています。友人たちは皆個々に活動しているので、日中はなかなか時間が合わず、交流できるのは夜中になってしまうことが多いです。料理する時間もまちまちで、昨日は夜中にツイストドーナッツを作りました。

自由奔放な幼少時代

子どもの頃から好奇心やチャレンジ精神旺盛
熱中しすぎて親を慌てさせたことも

中川優芽花さん

仕事でドイツに渡った両親の元、私はデュッセルドルフ市で生まれ育ち、市に認可された日本の寺院が運営する幼稚園に通っていました。園児は日本人とドイツ人が半々だったので、ドイツ語に触れる機会も多かったのですが、小学校低学年までは日本人学校でしたので、ドイツ語を使う機会は限られていました。ドイツ語を日常的に使うようになり、きちんと話せるようになったのは、小3で現地校に編入した後です。

しかし、私はドイツ語をしゃべれないときから物おじせず友人に話しかけていた記憶があり、今思うと、どうやって意思疎通していたのか不思議です。子どもの頃からドイツ語の環境にいて、友人と交流する中で、自然とドイツ語を身に付けることができたのかもしれません。ただドイツ語は文法がすごく難しくて、今も完璧とはいえないと感じています。

幼い頃の私はというと、落ち着きがなく自由奔放で、毎日砂まみれになるまで遊んで帰宅するような子どもでした。母の話では、砂がたくさんついていた洋服を洗濯したため、洗濯機が壊れたこともあったそうです。今でもそうですが、好奇心旺盛で何事に対しても頭の中であれこれと考え悩むよりはまずは行動、とチャレンジから始め、興味を持つと熱中しすぎていました。兎にも角にも動き回るのが好きで、鬼ごっこをしているとき、走るのに夢中で壁に頭を思いっきりぶつけ、たんこぶを作って帰宅したのですが、自分では気づいていなくて親を慌てさせたこともあります。そんなおてんばな私でしたが、両親は私がやることを尊重してくれ、のびのびと育ててくれました。もちろん、悪いことをしたときにはしっかり叱られましたが。

小さい頃は医師や薬剤師に憧れていました。日本の横浜に住んでいる祖母に障がいがあり、小さい頃から帰国するたびに介護者と接する機会が多かったからです。私も人を助ける仕事がしたいと思っていました。ピアノを始めたのは4歳の頃。2つ上の姉の影響でした。ピアノは最初の頃は、新しい曲を学ぶプロセスが楽しくて、ゲーム感覚で次々と弾ける曲を増やしていきました。

公文の学習から得たものは?

ドイツ語は不得手でも
公文式で算数が得意になったことが自信に

中川優芽花さん

公文式教室に通い始めたのもピアノと同じ時期です。実は公文式も姉が通っていたからで、いつも姉の背中を追いかけていました。算数と国語、そして英語も少し、5年間ほど姉と一緒に通っていました。算数が得意で、問題を解くのが楽しかったことを覚えています。私は「まずは行動して、失敗して、学ぶ」というプロセスが好きなので、満点になるまで問題をくり返し解くという公文式のやり方が合っていたのだと思います。

その場でタイムを測るのも励みになりました。時間を測るというのは、自分との勝負です。タイムがよくなっていくとうれしくて、また次もがんばろうとチャレンジし続けていました。公文式教室のフックス先生はとてもフレンドリーで、母はとても頼りにしていました。現地校へ編入するときにも相談にのってくれたそうで、母は今でも感謝しているといいます。

公文式を続けていて、現在の自分を形作るうえで役立ったと感じることはたくさんあります。まず、私は落ち着きのない子だったので、「決められた分量をする」という目標があることで、集中力の向上につながったと思います。

また、公文では自分で考えて問題に取り組みますよね。そうすることで、頭の回転が速くなり理解力も高まったと感じています。このことは音楽にも共通して言える大切なことです。ピアノのレッスンでも先生から言われていることを瞬時に理解してすぐできることが大事だからです。「なぜ先生にこう言われているのか」を自分で考えて取り組むことができるのは、公文式を続けていたおかげだと思います。

算数が得意になったのも自信になりました。現地校に編入した時、ドイツ語はあまりできなくて、文章問題は難しかったのですが、数式問題は早く解くことができたので、落ち込まずにすみました。

後編を読む

関連リンクPrize 2021, Yumeka Nakagawa – Chopin – YouTube


中川優芽花さん

後編のインタビューから

-自信を失い「ピアノをやめよう」と思ったことも
-「立体的に」演奏できるようになるにはさまざまな経験をすることが大切
-人と比べるのではなく、自分が楽しく続けられることが大事

後編を読む

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