高校教師を辞して大学院へ、そして「真の学び」に目覚める

高校時代、授業をさぼっては映画館に入りびたっていたわたしは、大学の講義もさぼり気味だったのですが、ある日、のちに「師匠」と呼ぶようになる日本教育史研究者の本山幸彦先生と出会います。本山先生は京都大学の教授でしたが、客員教授として同志社大学に来られていました。本山先生からは、先生の研究内容だけでなく、学びの姿勢や生き方など、ひとりの人間としても、とても大きな影響を受けました。
本山先生との出会いもあり、卒業後の進路はあれこれ考えていたのですが、いざ就職活動をするころになると、やはり教育映画を作りたくて映画会社を志望するのですが、「映画を作りたい!」という情熱だけではどこも雇ってくれませんでした。それでも高等学校の教員に採用され、世界史を教えることになりました。ところが、教壇に立って生徒たちを前にしたとき、ひとつの疑問がわいてきました。
若造の自分が「先生」と言われることへの疑問です。人生経験も少ない。教えるのが上手かといえば、そんなこともない。世界史の知識もまだまだ。自分自身がしっかり両足で立てていないのに、生徒たちに何が教えられるのだろうかと、自問自答の日がつづきました。考えに考えたすえ、こんな教師に教えられる生徒たちに申し訳ないと、2年間勤めた高校に辞表をだし、もう一度大学院で学ぶことにしたのです。
大学院では「自分をもっとしっかりした人間につくり直さなくては…」との想いから、専門は教育史ではなく儒学を選びました。そして、幕末から明治の人たちの覚悟のある生きざまやひたむきな学びの姿勢を知り、そこから連綿として深い思索と信念をつくりあげてきたことに驚嘆しました。ひるがえって、自分はどうか。それまでも、サルトル、マルクスなど、いろいろ読んで知った気になっていましたが、自分の信念を確立するまでの「学び」になっていなかったことにも気づかされました。
さらに、幕末から明治維新にかけての先駆者たちが、欧米をどのように受けとめていたのかということに関心が向き、日本思想史を学ぶようになりました。師匠である本山先生とともに、政治学者・思想史家である東京大学の丸山眞男先生が著した『日本政治思想史研究』を読んだりして、日本人はどう歩んできたのか、どういう背景からどんな思想が生まれてきたのかを研究しました。
こうした自分の拙い経験からですが、人は、本当に自分の実になることを学びたいと思ったとき、初めて真剣に学ぶ。それが「真の学び」であり「学問」だということです。わたしはずいぶんおそい「学びへの目覚め」でしたが、大学院での学びで、自分の信念となるようなものを構築していくことができました。