祖母の「語り」で育てられた子ども時代
多感な少女時代に父の会社が倒産
![]() |
私は瀬戸内海に浮かぶ生口島(いくちじま)という小さな島で生まれ育ちました。視界に入ってくるのは海と山、島影、船だけ。のんびり暮らしていましたが、それは人と争って自分が抜きんでようというような闘争精神が育たないということでもありました。小さな島では周りは知っている人ばかりで、特に自分から何かを主張しなくても何の問題もなく過ごせましたから。
父は軍人で、戦地のビルマから帰ってきたのは私が5歳のときでした。まったく知らない男の人が突然家族になるわけで、当時どう父とつきあっていたかは記憶にありません。その後、父は土建業を起こしましたが、家では本を読んだり将棋をしたりと、もの静かで穏やかな人でした。
母は正反対で、外に出るのが大好き。お祭りがあると三味線を弾きながら行列の先頭を練り歩き、その他、お琴、日本舞踊、麻雀なども得意で、実家の時計屋を切り盛りし、修理から何から全部自分でやっていました。私の服も全て母の手作り。凄腕でしたね。
そんな対照的な両親のもと、私が影響を受けたのは、忙しい両親に代わって面倒を見てくれた祖母です。祖母は毎夜、昔話を語ってくれました。その思い出が「心地よかった」という記憶とともに残っています。成長してからも、お年寄りとお話するのはまったく違和感がなく、子ども時代の影響は大きいと実感しています。
その頃の私の夢はお医者さんになることでした。ひきつけを起こしやすかった妹をいつも助けてくれて、お医者さんは人の命を守る大切な仕事だと思ったのです。ところが、私が高校1年生の時に父の会社が倒産。豊かだった暮らしが一変、全財産を失い、大学に行って医者になるという道はあきらめました。
その後、父は東京へ、母と妹たちは親類のいる奈良へ。私は高校を卒業するまで祖母と島で暮らしました。当時、祖母は私にこう言いました。「こういう状況で高校生活を送るのはつらいかもしれないけれど、それを乗り越えるいい方法がある。それは学校で一番になること。そうすれば誰も何も言わないし、自信もつく。勉強するのにはお金がかからない。ただやればいいだけ」と。祖母は何気なく言ったのでしょうが、私はその通りだと思って、勉強しました。