医療だけでは救えない「何か」。ある患者さんとの出会いが大きな転機に

産業医大では、眼科で緑内障を専門に診ていました。あるとき、ひとりの成人の患者さんに緑内障の手術をしたのですが、術後の経過が芳しくない。そこで眼圧を下げる薬を投与したところ、両眼の結膜が充血し、背中など全身の皮膚に水疱などができてしまいました。全身の皮膚細胞が重篤なダメージを受けるという薬の副作用(のちに薬害と判明)がでてしまったのです。最善は尽くしたものの、最終的には両眼球にも重い損傷が生じる状態になってしまいました。言葉がでないほどのショックでした。1992年の秋のことです。
副作用の症状がでたあと、その患者さんが入院中、症状の改善はもちろんのこと、何とかして立ち直らせたいと、われわれ病院スタッフは、ありとあらゆる知識や技術を総動員させました。患者さんの気持ちだけでも前向きにできないかと、精神科の先生のカウンセリングなども試みましたが、その患者さんは落ち込んでいくばかり。退院後の生活のめどもまったく立ちませんでした。
「どうしたらこの状況を打破できるのだろうか」。そう思い悩み続け、気がつけば2年近くの年月が経とうというある日、ひとりの歩行訓練士*に相談しました。そして、「奇跡」が起きたのです。その歩行訓練士が、たった3回その患者さんに接しただけで、患者さんの様子が一変しました。患者さんはみるみる元気になり、リハビリにも励み、やがて退院。そのあと、はり・きゅう・あんまなどを学ぶための学校に通い、個人で治療院を開業、立派に社会復帰をされたのです。そのどれもが、わたしたちにとっては驚きの連続でした。
*「歩行訓練士」:正式名称「視覚障害者生活訓練等指導者」
いったい、その歩行訓練士は、患者さんに何をしたのか? 詳しく聞いてみました。すると、それが「奇跡」ではないことがわかったのです。わたしたち医療従事者が、医療としての専門家であるだけにそこにしか目を向けていなかったところへ、その歩行訓練士はふつうに人としての心で患者さんと接しただけのことだったのです。
まず、患者さんと同じ立場で話を聞き、患者さんのいまの気持ちに真摯に耳を傾け、その気持ちについて率直に語りあっていました。さらに、患者さんが生活していくうえで直面するであろう課題や困難を、そのひとつひとつについて、どうすれば改善できるか、解決できるかをいっしょに考え、その具体的な対応や方法を提示していたのです。なるほど、と思いました。「将来の希望」を患者さんとともに考えていたのだと。これにより、患者さんは将来の自分をイメージできるようになり、歩行訓練士とさらにコミュニケーションを密にすることで、みるみる気力を取りもどしていったのです。
わたしは、そういう術を知らなかった。そして気づきました。医療の技術だけでは救えない「何か」がある、と。これが、「ふつうの眼科医」だったわたしが「ロービジョンケア」に取り組むことになるきっかけでした。それからほどなくして、医療だけではなく、福祉や心理や教育など、さまざまな分野の情報や技術を総合して視覚障害のある人を支援する「ロービジョンケア」という考え方が欧米にあることを知りました。
しかし、国内ではその当時、「ロービジョンケア」の日本語訳の本もテキストもなかったので、それまで眼科医として培ってきた知識や技術を活かしながら、独学で学んでいくしかありませんでした。たいへんなことはたいへんでしたが、その患者さんのご苦労や心情を思えば、いまでも申し訳なさとやりきれなさとでいっぱいですが、患者さんのためにも、自分が日本での「ロービジョンケア」の道を拓いていかなければという思いを強くしました。
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後編のインタビューから – 「福祉関係者と医療関係者は、よきパートナーでありチームであるべきです」
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