「いつも一番になりなさい」。母のその言葉が私を「根性者(こんじょうもん)」に育てた

父と母のことですか…。父は15歳で海軍に志願し入隊しました。終戦直前に乗っていた軍艦が撃沈され、対馬まで泳いで助かったという強運のエピソードの持ち主で、艦長の秘書役をしていたそうです。戦後は布団の行商人をして全国を周り、わずかばかりですがお金を貯めながら、いわゆる「五反百姓」として農地を耕していました。やがて地元の市会議員になり、県会議員にもなりましたが、世のため人のためと時間も労力も厭わず動いていたので、家にはいつもお金がありませんでしたね。それでも、議員を続けたのは、日本全国を自分の足で見て歩いていたので、地元の人とは異なった視点で物事を見たり考えたりできる人だったからのようです。
母は私を生んだあと、結核にかかりほぼ寝たきりでした。長女である私がしっかりしなくてはと、もの心ついたときから農作業を手伝っていました。貧しかったし、家には床に伏せる母がいる。そんな環境でしたが、母は教育熱心でものすごく厳しく、「いつも一番になりなさい」と言われ続けて育ちました。
私が成人してからのことですが、母は「いつも一番に」と言い続けてきたことを「とても後悔している」と語ったことがあります。「律美がこんなに根性者(こんじょうもん)になったのは、私のせいだ」と笑っていました。たしかに私は、何をするにも「一番にならなきゃ」と思って取り組み、「これは」と思ったことはとことんやるような子に育っていましたから。母の期待に応えようと、子どもながらに懸命だったのでしょうね。
けれど、「いつも一番に」と言い続けた理由は母らしいものでした。「自分が結核を患っていることは、近所の人はみな知っている。だとすれば、律美は私のせいでのけものにされていないか。でも、自分は助けてやれない。それなら、この子は何でもできるように、何でも一番になれるように育ててやらんといかん」。そう考えていたようです。あまりの厳しさにうんざりすることもありましたが、親の心子知らず、だったのですね。
そんな母は、私にこうも言っていました。「恵まれた家の人のところに嫁いでも、みな生身の人間。夫が病気を患ったらお前が子どもを一人前にさせなくてはならないかもしれん。だからお前は働く術をもっておけ。大学へ行け」と。当時の女性としては先進的な考えの持ち主だったのだと思います。とはいえ、1960~70年代当時の女性の専門職といえば、看護婦か学校の先生くらい。女医さんや女性弁護士はほんのひとにぎり。そんな時代でした。