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Vol.016 2014.12.24

特養園長 山崎律美さん

<前編>

100点をもらえれば誰もがうれしい
人は“ちょうどの学び”
たしかに育つ

社会福祉法人 道海永寿会業務部長 特別養護老人ホーム永寿園園長 ケアマネージャー

山崎 律美 (やまさき りつみ)

福岡県生まれ。淑徳大学社会福祉学部卒業。厚生省社会局国立福岡視力障害センター生活指導専門職、佐賀県福祉生活部身体障害者施設生活指導員、児童施設・児童指導員、福祉事務所ケースワーカーなどを経て、1992年に社会福祉法人道海永寿会の特別養護老人ホーム永寿園へ。2003年、西九州大学大学院健康福祉学修士修了。

福祉の専門家・実践者として、障害児・障害者に向き合ってきた山崎さんは、自分が責任者となった老人介護施設で、認知症の高齢者に「読み書き計算」の学習を試みます。そこから誕生した認知症の予防と改善のための『学習療法』は、いまや日本国内はもちろん、海外にも展開されています。自らの進むべき道をまっすぐに突き進んできた山崎さん。そのパワーの源をうかがいました。

目次

「いつも一番になりなさい」。母のその言葉が私を「根性者(こんじょうもん)」に育てた

特養園長 山崎律美さん

父と母のことですか…。父は15歳で海軍に志願し入隊しました。終戦直前に乗っていた軍艦が撃沈され、対馬まで泳いで助かったという強運のエピソードの持ち主で、艦長の秘書役をしていたそうです。戦後は布団の行商人をして全国を周り、わずかばかりですがお金を貯めながら、いわゆる「五反百姓」として農地を耕していました。やがて地元の市会議員になり、県会議員にもなりましたが、世のため人のためと時間も労力も厭わず動いていたので、家にはいつもお金がありませんでしたね。それでも、議員を続けたのは、日本全国を自分の足で見て歩いていたので、地元の人とは異なった視点で物事を見たり考えたりできる人だったからのようです。

母は私を生んだあと、結核にかかりほぼ寝たきりでした。長女である私がしっかりしなくてはと、もの心ついたときから農作業を手伝っていました。貧しかったし、家には床に伏せる母がいる。そんな環境でしたが、母は教育熱心でものすごく厳しく、「いつも一番になりなさい」と言われ続けて育ちました。

私が成人してからのことですが、母は「いつも一番に」と言い続けてきたことを「とても後悔している」と語ったことがあります。「律美がこんなに根性者(こんじょうもん)になったのは、私のせいだ」と笑っていました。たしかに私は、何をするにも「一番にならなきゃ」と思って取り組み、「これは」と思ったことはとことんやるような子に育っていましたから。母の期待に応えようと、子どもながらに懸命だったのでしょうね。

けれど、「いつも一番に」と言い続けた理由は母らしいものでした。「自分が結核を患っていることは、近所の人はみな知っている。だとすれば、律美は私のせいでのけものにされていないか。でも、自分は助けてやれない。それなら、この子は何でもできるように、何でも一番になれるように育ててやらんといかん」。そう考えていたようです。あまりの厳しさにうんざりすることもありましたが、親の心子知らず、だったのですね。

そんな母は、私にこうも言っていました。「恵まれた家の人のところに嫁いでも、みな生身の人間。夫が病気を患ったらお前が子どもを一人前にさせなくてはならないかもしれん。だからお前は働く術をもっておけ。大学へ行け」と。当時の女性としては先進的な考えの持ち主だったのだと思います。とはいえ、1960~70年代当時の女性の専門職といえば、看護婦か学校の先生くらい。女医さんや女性弁護士はほんのひとにぎり。そんな時代でした。

自分の人生が大きく左右されることになった、お父さんに話した一言とは?

「10年先は福祉の時代が来る」。父に背中を押されて福祉系大学へ

特養園長 山崎律美さん

話してみると、母は私を学校の先生にさせたかったようでした。私は中学時代、クラブ活動でバレーボール部に入っていたのですが、友だちとケンカをしても、バレーの練習をやったあとは仲直りできることに気づき、「この原理は使える。体育の先生になって、地域の教育に貢献しよう」と考えました。これなら母の希望も叶えられると思ったのですが、母は「体育の先生なんて、年とったらどげんすると(年をとったらどうするの)」と、すぐに却下。

さて、どうしようと分厚い大学案内のページをめくっていたら、「社会福祉」とか「社会教育」とかいう見たことも聞いたこともない文字が目に飛び込んできました。当時、児童養護施設の寮母と子どもたちの生活を描いたテレビドラマにハマっていた私は、「私が探していたのはこれだ!」と、父に相談すると、「10年先は福祉の時代が来る。お前は俺に似て世話好きやけん。おおとる(似合っている)」と、背中を押してくれました。

そうして進学したのが、当時開学して間もなかった千葉にある福祉系の大学でした。たまたま親戚が千葉に住んでいて、近くに「お目付け役」がいたのも後押しとなりました。当時は大学紛争が盛んで、そういう思想に染まるのは困ると父も母も思っていたようですから。そして、大学に通うようになって実感したのは「福祉で働こうとする人たちはみなやさしい」ということ、そして「もう一番にならなくていいんだ」ということでした(笑)。

とはいえ、まさしくオンリーワンのスタートでしたが、一番になるためにとことんがんばる気持ちが身にしみついていたのは、よいことでもありました。弁論部に所属していた高校時代、弁論大会で「私は福祉の仕事をします」と宣言したことがあります。いま高校時代のクラスメートに会うたびに、「言った通りに生きてきたのはあんただけだね」と言われます。これも「根性者(こんじょうもん)」のなせる業かもしれません。

そして、大学1年の夏休みのことです。お盆の帰省時に、私は父にこう言いました。「父ちゃん、これから百姓では食うていかれんよ。田んぼ売って老人ホームばつくろうか」と。大学で福祉を学びはじめたばかりのころでしたが、自分の理想とする介護施設をつくってみたいという淡い夢があり、その気持ちから口にした一言でした。それが、まさか自分の一生を左右することになるとは、そのときは思いもよりませんでした。

知的障害児の施設で子どもたちの食欲がアップした理由とは?

忘れられない、100点をもらったときのうれしそうな顔

特養園長 山崎律美さん

大学卒業後は、福岡にある中途失明者の自立を支援する国立の更生施設で働くことになりました。そのあと佐賀県の福祉生活部に移り、重度身体障害者の施設で勤務。そのつぎは福祉事務所のケースワーカーとして、生活保護関係の仕事などもしました。ふり返ってみれば、さまざまな福祉の現場で働いてきましたが、それらを通して学んだ知識やスキルがいまとても役立っています。

佐賀県で働いていたころ夫と知り合い、息子ふたりが生まれました。共稼ぎだったので、勉強する習慣はきちんとつけさせたいと、知人が開いていた公文式教室に通わせることにしました。私が夕食の支度をしているとき、食卓にふたり並んで座らせてプリントをさせました。あわただしい時間でしたが、母子の時間がもてたことは良かったと思います。いまになって思うことですが、ふたりともケンカなどしない穏やかな子で、それは性分だと思っていました。「主人に似とっとかな(似ているのかな)?」と。しかし、いまにして思えば東北大学の川島先生(後出)が言うように、公文式の学習で前頭葉が鍛えられていて、感情のコントロールができていたからかもしれませんね。

福祉事務所のあと、私は児童指導員として知的障害児の施設で働くことになりました。この施設には障害のある幼児から高校生までが寝泊まりし、そこから近くの小学校・中学校に通います。子どもたちにとっては、第二の家のようなところです。そこでの私の主な役割は「学習係」、正式には「児童指導員」です。学校から出される宿題を手伝ったり、わからないところを教えるような仕事ですね。

でも、学校から出される宿題は子どもたちにはむずかしい。どの子もそうなのです。できない宿題をなぜ出すのか。できないことをなぜやらせるのだろう、できることがあるのではないか。できることをさせるほうがいいのでは…、と矛盾を感じていました。そんな思いが何日か続いたある日、わが子ふたりがしていた公文のプリントなら、この子たちはできるんじゃないかと思いつきました。

押し入れにしまってあった息子たちの学習済みプリントの束を取り出し、手書きで毎日ノートにプリント10枚分の問題を書き写し、試みに5人の特殊学級(当時、現在は特別支援学級)に在籍していた子たちにやってもらいました。この5人に学習してもらい学習効果を実証して、公文の事務局に導入をお願いに行こうと考えていたからです。

1ヵ月間データをとってみると、明らかに正答率と学習時間が縮まっているのです。それ以上に驚いたのは、5人の子どもたちの表情が明るく元気になっていたことです。うれしかったですね。じつは、できることをすることで子どもたちが変わるのかは半信半疑でしたが、これで確信がもてました。

ふと気づくと、5人が学習している学習室の様子をほかの子たちがのぞいている。それも、IQ(知能指数)が測定できない重度の障害がある子たちでした。その当時は、どこの施設でもそうでしたが、「何か教えてもすぐに忘れてしまうのだから、勉強よりは手作業やからだを使ってできることをさせよう」という傾向にありました。しかし、のぞいている重度の子たちの表情や眼を見て、「ああ、この子たちも学びたいんだな」と直感しました。

さっそく上司と相談し、公文の事務局にお願いして施設導入という形で、プリントを提供してもらえることになりました。まずは先の5人を含む、IQが測定できる子どもたちに。しばらくして、IQが測定できない重度の子たちも公文をするようになり、50人ほどいた施設の子どもたちみんなが公文をするようになりました。いまでは驚きませんが、重度の子たちが公文で学習ができることに、われわれ職員は目を見張りました。

学校から帰ってきて、夕食をとり、それから公文をします。100点と大きなマルをもらったときのうれしそうな顔を見ると、障害のある子もない子もみんな同じだと感じました。どんな子でも、その子に合ったちょうどのレベルをさせ、少しずつステップアップしていけば、必ず成長できることがわかったのです。

そして、さらに驚くことがおきました。施設の子どもたちが朝食や夕食をよく食べるようになったのです。朝夕の食事を用意する職員から「このごろ残飯が減った」ということが報告されたので、食事の様子よく見てみると確かによく食べている。生活全般も活発になっていました。その当時は、まだ東北大学の川島先生と出会う前で、「学習による脳の活性化」なんてまるで知らないころでしたが、毎日の学習で脳に何らかの良い変化が起きていたのだと思います。結局、佐賀県の職員を退職するまでの10年間、この施設で子どもたちの成長を見ながら働いていました。

後編をよむ

特養園長 山崎律美さん  

後編のインタビューから

– 「脳に刺激を与えなければ、認知症は進行してしまう」と直感的に感じた山崎園長
– 大きなマルと100点をもらったときの高齢者の笑顔、そこから誕生した『学習療法』
– 山崎園長が50歳をすぎてから大学院(修士)で学ぼうと決心した理由とは?

 
 

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