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Vol.050 2017.12.08

株式会社日立製作所 研究員 藤井祐介さん

<後編>

自分の信じた道を突き進むことで
「やっててよかった」がいつか訪れる

株式会社日立製作所 研究員

藤井 祐介 (ふじい ゆうすけ)

1980年岐阜県生まれ。公文国際学園中等部・高等部、京都大学理学部物理学科卒業後、東京大学大学院理学研究科修士課程修了。専門は素粒子物理学。大学院在学中の2003年にはスイスで行われた素粒子の実験「ATLAS(アトラス)」のチームメンバーとして、スイスにある実験施設の性能テストに赴いた。2006年より日立製作所に入社し、北海道大学と協力しながら動体追跡粒子線がん治療装置の開発に携わる。2017年には、公益社団法人発明協会が主催した「全国発明表彰」で、この動体追跡粒子線がん治療装置が恩賜発明賞を受賞。公文式は小2から教室に通い始め、算数・数学、英語、国語を学習。公文国際学園でも学習を続け、中2からは公文式フランス語も学習した。

日立製作所の研究員として、がん細胞に放射線を当てて壊す放射線治療を、治療の難しいがんでも可能にする技術の開発に携わっている藤井祐介さん。岐阜県の出身で、中学入学から親元を離れ、神奈川県にある公文国際学園に進学。同校の1期生という立場で個性的な級友たちとの交流を深めながら、のびのびと自分の強みを伸ばしていきました。藤井さんのモットーは、「ほかの人がやらないことをやること」。研究の第一線で活躍する藤井さんに、その道のりをうかがいました。

目次

「人と違う道」を選んで勝負をしてきた

藤井祐介さん

京都大学理学部の物理学科に進学しようと思ったのは、特に何かを目指していたからというわけではありませんでした。数学と物理が得意だったので理系に進もうと思っていて、理系でレベルの高いところはどこかという理由で選びました。物理が好きなのは、世の中の現象がすべて数式で表現できることが楽しいなと感じたからです。学校や予備校の物理の授業も楽しかったですね。

一方で、文系科目は苦手でした。公文国際学園は帰国子女も多くて、英語ができる人が多かったんです。私はそんな同級生たちに対抗しようとは考えず、中2の頃から選択の授業で公文式フランス語を学び始めました。自分が身につけたフランス語の力をさらに伸ばしたいと、高校1年生の時にはフランスにホームステイにも行きました。これは学校のカリキュラムではなく、自分で勝手に行くことを決めたので、先生に頭を下げて回って期末試験を受けずに行ってきました。両親には「ホームステイに行きたい」と言うと、このときも何も反対せずに応援してくれました。

そして大学受験のときには、英語の代わりに外国語はフランス語を選択して受験しました。参考書も多少は使いましたが、ほとんど公文式フランス語教材で受験に対応できたと感じています。ただ、そうやって英語を避けてきたので、研究者の仕事をするようになってとても苦労しています。なにせ学会も論文も英語だらけですから……。

私の人生は、中学からフランス語を学んだり、大学から別の大学の大学院に移ったりと、人とは違った道を進んで勝負してきたところがあります。王道の道を進むと、すごい人は本当にすごいということに打ちのめされることがあります。たとえば、自分は子どもの頃算数が得意でしたが、いざ公文国際学園に進むと、数学オリンピックに出場できるレベルの生徒がいたりして、「どうがんばっても逆転できないな」と思うことがありました。

部活にラグビーを選んだのも、たとえばサッカーなら小学校からやっていて自分よりうまい人がたくさんいたのに対して、ラグビーならほとんどの生徒が中学からのスタートだったから。こういう「多くの人と違う道を進む」というポリシーは、研究者という仕事でも大切です。研究というのは何か人がやっていないことを探していかなければいけないですからね。

藤井さんが研究者ではなく企業の研究員になった経緯とは?

あこがれのヨーロッパの実験施設で転機が訪れ、
就職を決意

藤井祐介さん

現在の分野の研究者になるきっかけは、まずは物理学に魅せられて京都大学の理学部物理学科に進学したことから始まります。そこでますます物理を面白く感じて、大学院に進学して研究者になろうと思いました。

では、どこの大学院に行こうかと考えたときに、そのまま京都大学の大学院に進むのではなく、東京大学の大学院に行こうと思いました。なぜかというと、ヨーロッパには世界で一番大きな加速器という粒子線を作る装置があって、その加速器で実験できるのは東京大学だということがわかったからです。

ところが、その東京大学大学院の在学中に転機が訪れました。もともとは博士課程まで進むつもりで、修士論文を提出し終わったあと、ヨーロッパにある世界で一番大きな加速器のところへ行き、実験の準備をしていました。すると、そこの研究員から「24歳から27歳までの間は、いろいろ学ぶのに重要な時期である。おまえは世の中のことがわかっていないから、社会に出たほうがいい」と言われてしまって……。その研究員は私が尊敬する方だったので、この人がそう言うならそうなんだろうと思って、修士2年の2月の終わりに就職活動しようと思い立ったんです。

でも、当然2月に就職活動をしてその年の4月から日本の会社に入社できるはずはありません。翌年の4月入社の就職活動だって、当時はもう終わりかけの状態だったんです。しかも、翌年3月末の時点で私は修士課程修了ではなくて博士課程1年ですから、新卒でもないんですよね。エントリーさえ受けつけていない会社がたくさんあったなかで、「加速器」に関わる研究を続けて世の中の役に立てる仕事があったのが日立製作所で、ご縁があってこちらに入社することになったというわけです。

藤井さんのこれからの夢とは?

もっと多くの人に装置を使ってもらえるよう研究を続ける

藤井祐介さん

今回受賞した「動体追跡粒子線がん治療装置」は、私が日立製作所に入社してからずっと携わってきました。北海道大学と日立製作所の共同研究チームの中で、私が担当していたのは、粒子を腫瘍にあてたときに、どのようなエネルギーが当たっているかのシミュレーションをするという役割でした。

シミュレーションの結果によって、粒子線で一度に狙う範囲をどのくらいにするのかを決めます。狙う範囲が大きすぎれば、正常な部分にもダメージを与えてしまいますし、小さすぎると、何度も粒子線を打たないといけないので、治療の効率が悪くなるんです。だから、ちょうどよい範囲はどのくらいなのかを決めるのはとても大切です。

全国発明表彰で賞を取った後も、動体追跡粒子線がん治療装置の研究は続けています。次の課題は、この装置がもっと使いやすくなるようにすることです。この装置を使うときは、患者さんごとにどこに粒子線を当てたらよいのか、粒子線をどのくらいの深さにまで届けるのかを計算して決めなければいけません。いま私はその計算をするソフトを開発しています。

粒子線治療装置は国内に10数台しかなく、しかも動体追跡という機能がついているものは、現在は北海道大学にしかありません。ですから、この装置がもっと医療現場に普及してほしいというのが私の願いです。装置が小さくなり、安くなれば治療費も安くなって、皆がその治療を受けられるようになります。そんな状況を作れるよう、これからも努力を続けたいと思っています。

前編を読む

関連リンク 日立製作所 公文国際学園


藤井祐介さん  

前編のインタビューから

-全国発明表彰で恩賜発明賞を受賞した研究の内容とは?
-藤井さんの子ども時代
-藤井さんが公文式で身につけた力とは?

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