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Vol.107 2024.11.12

慶應義塾大学医学部 形成外科学教室 特任助教
鈴木悠史さん

<前編>

少しずつでも前に進み続けていれば
いつしか一歩先を歩んでいける
興味・関心の広さは「読書」から

慶應義塾大学医学部 形成外科学教室 特任助教

鈴木 悠史 (すずき ゆうし)

1990年生まれ。5歳まで東京で暮らし、父親の転勤で富山、静岡で幼少期を過ごす。静岡県藤枝市の小中学校を経て、特待生として藤枝明誠高等学校に入学。大学受験では東京大学理科二類をはじめ難関大学に複数合格し、慶應義塾大学医学部に進む。2016年から慶應義塾大学医学部形成外科にて後期研修を行い、横浜市立市民病院や琉球大学医学部附属病院(当時)など複数の病院に勤務。2019年に慶應義塾大学医学部形成外科へ帰任し、2020年同大特任助教。日本形成外科学会専門医。2022年度日本形成外科学会学術奨励賞臨床部門優秀賞、第7回日本リンパ浮腫治療学会学術総会優秀演題賞など受賞多数。

臨床や研究など、形成外科医として多忙かつ充実した日々を送られている鈴木悠史さん。子どもの頃から大好きだった読書によって様々な方面に関心が広がり、将来の夢も宇宙飛行士や国家公務員など多岐にわたっていたといいます。そんな鈴木さんが進学にあたり多くの選択肢を持つことができたのは、3歳の頃に始めた公文式学習の積み重ねがあったからだとふり返ります。多くの選択肢の中から医師を選んだ理由や、壁に突き当たったときの考え方、夢を叶えるために大切にしてきたことなどをうかがいました。

目次

    病気やケガで欠損した体を修復
    手術は年間約100件以上

    形成外科医というのは、先天性の体の欠損や、何かしらのケガや病気を患ったことで欠損してしまった体の一部を修復したり、外見をきれいにしたりする専門医です。例えば乳がんで乳房を切除した後に乳房を再建するのもその一例ですが、私がメインで行っているのはリンパ浮腫の治療です。

    顕微鏡手術の様子

    リンパ浮腫というのは、乳がんや子宮がんなどの術後に、主に腕や足にできるむくみのことです。手術ではがんが転移しないようにリンパ節を切除するのですが、そのことによってリンパの流れが滞ってしまい、むくみが現れてしまうことがあります。

    リンパ浮腫は弾性ストッキングなどを用いた圧迫療法もありますが、私が行っているのは、リンパ管と静脈をつなぐバイパス手術によって、リンパの流れをよくする治療です。この手術は顕微鏡を用いながら糸と針を使って手で行います。リンパ管も静脈も0.5㎜ととても細いので、つなぐべき箇所を正確に見つけるのはとても難しいんです。

    そこで、血管などをより見つけやすくする技術として期待されているのが、私達が研究を進めている、光超音波を使った画像診断です。手術の前に「ここにリンパ管がありそうだ」と画像でマッピングしておくことで、スムーズに手術ができるのです。この技術はまだ研究段階なので、患者さんに協力していただきながら、臨床結果を装置メーカーにフィードバックし、よりよい治療環境づくりを目指しています。

    私は慶應病院に所属して、こうした臨床や手術、研究をするほか、他の一般病院でも診療や手術を行っています。私は今、医師として働きはじめて11年目、形成外科医としては9年目ですが、想像していた以上にやりがいがある仕事だと感じています。それは、実際に自分の手を動かして治療ができて、結果が目に見えてわかりやすいから。見た目がよくなるということだけでなく、「ラクになりました」などと患者さんから言われると、うれしくて本当にやりがいを感じます。

    引っ越し先でも公文式を継続
    どこでも学習できるのがいい

    私の母は里帰り出産だったので、生まれは仙台市ですが、東京で5歳まで暮らしました。その後は父の転勤で富山、静岡と転々と引っ越しをしました。4歳年下の弟が一人います。兄弟ともに好きなことを自由にやらせてもらったと思っています。

    小学校の頃から、野球や囲碁、居合いなど、興味の赴くままいろんなことに挑戦していました。弟も野球をしていたので、野球経験ゼロの父は、私たちの練習や試合に付き合ううちに野球と離れられなくなり、今でも少年野球の審判をやっています。私たち兄弟はすっかり野球を卒業したのに、です。

    公文式についての一番古い記憶は、小さい頃に自宅でやっていた漢字カードです。漢字で「水」と書いてあるカードの裏に水道の絵があったのを覚えていますが、遊び感覚でしていたのだろうと思います。

    公文式の教室に通うようになったのは、親によると3歳から。弟が生まれるため、年少で幼稚園に入れてしまうと送迎が難しいからという理由だったそうです。当時は東京住まいだったので都内の教室だったと思いますが、幼すぎて当時の様子は覚えていません。

    その後、引っ越し先でもずっと教室には通っていました。公文式はそれがよいところですよね。全国どこに行っても教室はありますから、中断せずに学習を続けることができます。これが個人塾だったらそこで途切れてしまいます。学習の進度は教室が変わっても共有されますし、カリキュラムも共通なので、引っ越し先でも自然に続けられたのだと思います。

    引っ越しをするたびに教室も変わりましたが、その中でも一番記憶に残っているのが、小4から通い始めた静岡県藤枝市の教室です。そこで中3まで、国・数・英を続けました。

    公文式は、プリントを毎日5枚など、やるべき枚数が決められていますよね。でも私は結構サボっていて、1日2枚しかやらなかったんです。それでも先生は私に強制せずに、おおらかに見守ってくれました。

    中学生の後半ぐらいになると、ライバル視していた野球部の先輩に負けたくないという気持ちが生まれてきて、自分からどんどんやるようになりました。先生はそのときも制限することなく、先へ先へと進ませてくれました。このときにどんどん進んで学習を先取りできたことが、後の自分の人生に大きく影響しているように思います。本当に先生のお陰です。

    中学卒業後は特待生として私立高校に進みました。そのタイミングで公文式も卒業しましたが、その後も教室にはときどき遊びに行き、年下の子の面倒を見るなどしていました。

    なりたいものがたくさんあった
    興味の幅が広かった学生時代

    応援部(應援指導部)での一コマ

    公文式で学習を先取りできるとお話ししましたが、私は3学年ぐらい先に進んでいました。そうなると、学校でその学年で学ぶべきことは終えているので時間ができます。その空いた時間によく本を読んでいました。

    学校の図書室にある本が中心で、小説や日本の歴史シリーズなど、ジャンルを問わず読んでいましたね。自宅には手塚治虫全集があったので、それもお気に入りでした。また『Newton』などの科学雑誌も好きで、宇宙特集を読んで「宇宙もおもしろいな」と興味をもつようになりました。実は今でも宇宙飛行士には関心があります。

    公文式の教室にも本が置いてありますよね。教室には弟と一緒に通っていたのですが、弟を待つ間、教室の本を読んでいた記憶もあります。

    当時はテレビゲームなども流行っていましたが、私はそんなに没頭するタイプではなかったし、少年野球チームが忙しかったので、そもそもゲームをする時間がありませんでした。私が所属していた野球チームは県大会で準優勝するぐらいの実力があり、土日以外の平日にも練習があったんです。

    その頃の夢は、野球選手とか宇宙飛行士とか…多分医師も含まれていたと思いますが、実はあんまり覚えていないんです。興味がいろいろあるというか、すぐに気が変わってしまうというか…。結果として医師になりましたが、これも「興味の中のひとつ」でした。

    高校生になり、大学進学を考えるようになってからも、国家公務員や官僚といった文系の選択肢も考えていました。一方で、中東の政治や歴史、特に第3回十字軍のあたりの出来事や宗教対立にも関心がありました。

    そんなふうにいろいろなことを学びたいと考えたときに、行きたいと思ったのが東京大学でした。東大は入学してから進む学部が決められるので、そのときの興味が強い方面に進むことができます。文系に行って中東のことも専門に学べるし、法学系であれば官僚の可能性もあるな、と思ったんです。

    ところが記念受験のつもりで受けた慶應義塾大学医学部にも合格し、どちらに進もうか迷いました。結果的に医学部に決めたのは、医師になるには医学部で学ぶ必要がありますが、他の職業はそうではないと考えたからです。医学部に進んだら必ず医師にならなきゃいけないというわけではありませんからね。最近は医学部に入学しても、医師にならない人も多いようですが、当時は医師になりたくて医学部に入学してくる人が多数でしたので、私は異質だったかもしれません。

    なぜ私が、このように選択肢の幅を広く持つことができたかと言えば、やはり公文式学習を続けてきたおかげだと思います。学校の授業を先取りしていたおかげで、授業をスムーズに受けることができていた。つまり「余裕がある」ということが大きかったのだと、ふり返って思います。

    親にとっては学費の安い東大のほうがよかったのかもしれませんが、慶大医学部に快く送り出してくれたことを、今、改めてありがたく思っています。

    後編を読む

     


     

     

    後編のインタビューから

    -凹んでも切り替えができるのは 応援部に所属していたおかげ
    -「自分はこれをやりたい」と アピールしておくことも必要
    -これからは海外の人たちと 新しいことに挑戦したい

    後編を読む

     

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