バリはイノベーションの宝庫
私は10年前に妻とEarth Companyという団体を立ち上げました。主に3つの事業を展開しています。ひとつ目は「インパクトヒーロー支援事業」です。元々やりたかったのが、アジア太平洋にいるすばらしい社会起業家を資金面や企画面で支援して、その人たちの活動をより安定的にインパクトを持たせたいということで、それが形になりました。
例えば2024年は、100名近い応募の中から計8名の社会起業家を最終的なチェンジメーカーとして選出し、リーダー育成プログラムを提供してきました。さらにその中から、ネパールの僻地に82の学校をつくり、1万4千人以上の子どもたちに質の高い教育の機会を提供するネパールの活動家を今年の“インパクトヒーロー”として選出し、2026年までとことん伴走支援をします。私たちは彼らを支援していますが、むしろその人たちから学ぶことの方が多いと感じています。
ふたつ目が、2016年から始めた「インパクトアカデミー研修事業」です。バリ島は観光地として知られていますが、住んでみて気づいたのは、多くの社会課題に直面しているということ。地方創生的な様々な活動が行われていて、それがイノベーションを生み出しているので、私たちは「ソーシャルイノベーションの宝庫」と呼んでいます。
そのことを知ってほしいと思い、社会人や学生にスタディツアーに来ていただいたのが始まりです。寛容で多様性に溢れているバリヒンズー教の懐の深さが、新しいアイデアを生む土壌となっているのかもしれませんね。
当初はバリ島のゲストハウスなどに宿泊してもらい、私たちが支援している人たちの活動を視察してもらったりしていたのですが、昼間の研修時はそうしてサステナビリティを学ぶのに、夜は一般的な宿泊施設、という点にギャップを感じる参加者も多くいました。
我々も一貫性を持たせたいと考え、自分たちでつくったのが、エシカルホテル「Mana Earthly Paradise(以下、マナ)」です。このホテルの運営が3つ目の事業です。ところが、オープンして数カ月でパンデミックとなり、タイミング的には最悪で…。でもB Corpというサステナブルな事業に対する国際認証を取得するなど、休業期間を有効活用しながら 乗り切りました。
この「マナ」という箱をつくったことは、大きな意味があると感じています。サステナビリティとかエシカルと言っても、抽象度が高くてわかりにくいですが、マナをつくったことで「我々はこういう世界をつくりたいんだ」ということを具現化できました。デジタル時代だからこそ、アナログな五感で感じる価値は増していくと思うので、体験できる場所をつくれたというのは、大きなステップです。
アカデミーの参加者は、マナに宿泊することもあれば、人数や内容によって他の宿泊施設を利用してもらうこともあります。宿泊先含め研修は、プログラム内容とともに先方と話し合いながら設計していきます。現在アカデミーは中高生の修学旅行や企業の新入社員研修としても活用いただいています。日本からだけでなく海外からの団体の利用もありますよ。
このアカデミー事業の全体監修をするのが、「最高探究責任者」である私の仕事です。研修講師なども担当しています。
公文のおかげで数学には困らなかった
私の生まれは神奈川県ですが、父の転勤により3歳でロンドンへ行きました。現地では、ランチタイムは黙食がルールのような、とても厳しい幼稚園に通園していました。小1の3学期に帰国して横浜の公立小学校へ転校すると、慣れるのにとても時間がかかりました。給食当番や掃除があって驚きましたね。ようやく慣れてきたと思ったら、小6で今度はアメリカ・ボストンへ。その頃は学級委員になったりしてすごく楽しかったので、「行きたくない」と言い張りましたが、そんなわけにはいかず…。
ロンドン時代に5つ上の兄が公文式をやっていて、帰国後もしていた影響で、私も小2のときから算数と国語を始めました。とくに算数にハマりました。成績も伸びたので得意だとの自覚もありました。当時の私はシャイで内向的な性格で、真面目にコツコツやっていたようです。自分のペースで進められることもよかったのかもしれません。
塾へ行くために小5でやめましたが、それ以降、算数・数学で困ったことはありません。高校はアメリカの私立高校でしたが、そこでやるべき数学の単元を高2で終えて、高3のときは自由研究をしていたほど。公文でコツコツ続けていたおかげだと思います。
12歳で渡ったアメリカでの生活は本当に大変でした。幼稚園時代のロンドンでは英語には困らなかったのに、その後の日本生活ですっかり忘れてしまい、まったくわからない。言葉がわからない上に生活習慣などもまたゼロからのスタートです。溶け込んでいくのがとても難しく、わずかな日本人の同級生と放課後ゲームをしていたことが特に記憶に残っています 。
父の仕事柄また転勤を繰り返すだろうことを見込んで、中学卒業後は全寮制の私立高校へ。14歳から親元を離れての暮らしが始まりました。
幼少時代は慣れたと思ったら転校、ということを繰り返したからか、周囲を観察して、何を求められているのかを理解してから意見するようになりました。元々の性格もあるかもしれませんが、適応能力が高いとの自覚もあります。どんな文化でもどんなところに放り投げられてもやっていけるという自信があるのは、こうした環境で育ったからでしょうね。
「何もないけれどすべてある」
フィジーでの原体験
数学が得意で理系が好きだったこともあり、高校時代は「医者になろう」と考え、大学卒業後はメディカルスクールに行く道筋を思い描いていました。
入学したハーバード大学で、医師になるための必須科目のほか、友人に誘われ文化人類学も履修したら、これがおもしろくて。異文化・異民族への理解など、自分の生い立ちと関わっていると感じて興味をそそられました。そうして次第に医学から離れていくことになります。
実はその前に、今の自分につながる原体験があります。大学生になる前に3週間、フィジーで過ごしたことです。南国で異文化体験をしたいという単純な理由だったのですが、私にとっては初めての途上国訪問。現地の人たちは電気も水道も通っていないような質素な生活なのにすごく幸せそうで、実際私もすごく楽しかった。「何もないけれどすべてある」という感覚です。
経済的・物質的には何もないけど、人が温かい。見返りを求めない。いつも笑っている。「人間ってこんな風に暮らせるんだ」と初めて思いました。これまでの先進国での生活では感じることが少なかった、人間味や温かさをフィジーで感じたんです。
そのときから、経済的な豊かさと心の豊かさは反比例しているのでは、と思うようになりました。豊かさとは何か。「成長」と「豊かさ」をどう結びつけていくか。フィジーに滞在したときは、そこまで具体的な課題意識はありませんでしたが、そこで芽生えた思いによって、その後の人生が回り始めたといっても過言ではないと思います。
医師の道からそれて国際開発や社会貢献に関心を持つようになった一方で、メインストリームも体験してみようかなと思い、外資系証券会社でインターンをすることにしました。
インターン先では、インターン生でありながらものすごく好待遇で、仕事も刺激的でした。しかし、次第にお金持ちをさらにお金持ちにする手伝いをしていることに、罪悪感を覚えるようになりました。
フィジーやその後滞在したアフリカの人々のことを思い、現実を知っておきながら、自分は会社から支給された都市部のタワーマンションに住み、たいした仕事をしていないのに高額な給料をもらっている…。「なんかおかしいな」「これは自分がやる仕事ではないな」と感じてしまったんです。私は性格的にそう感じたらウソはつけません。内定をもらった インターン生はそのまま就職する中、私は内定を断りました。
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濱川知宏さん
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後編のインタビューから -ふたつ目の原体験はチベットに 「応援したい」ヒーローに出会う |