大学入学後に手話サークルを立ち上げて紅白出演
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高校時代は、ジャーナリストになるためのひとつの目標として「写真甲子園」の出場を目指していました。でも毎年、関東大会の決勝で敗れてしまいました。留学に行って“もっと広い世界があるのかも”と感じていたのもあり、写真甲子園関東大会決勝敗退の結果を受けて、「もしかしたら写真とは少し距離を置いたほうがいいのかもしれない」と考え始めました。そして、それまでは写真学科のある大学への進学しか考えていなかったのですが、総合大学に志望を変えて、広々としたキャンパスが気に入った慶應義塾大学環境情報学部に入学しました。そこは入学時には専攻を決める必要がなかったので、1学期は自分の幅を広げようと思い、外交から朝鮮語、バイオ、ビジネス、プログラミングまで、いろいろな科目を選択。その中で一番面白かったビジネスを2学期から集中的に学び始めました。
そのころ同時に始めたのが手話でした。身近に手話を使う人がいたわけではありません。実は中学2年の頃、テレビでたまたま手話講座を見かけたのですが、「なんてきれいな言語だろう」と感じたことがありました。その体験が心のどこかに残っていたのか、大学に入ったら手話サークルに入りたいと思っていました。でも入学してみたら手話サークルがありませんでした。そうしたら1年生の夏休みに同級生がたまたま“手話を一緒にやらないか”と声をかけてくれて、2 学期に入ってサークルを立ち上げたんです。その3か月後に、大学の先輩である一青窈(ひととよう)さんから、紅白歌合戦に手話で共演しませんかというお話をいただきました。でもまさか、僕らが立ち上げて3か月のサークルだとは思わなかったそうです(笑)。
紅白に出たことでたくさんの取材を受けるうち、手話の娯楽が少ないからこんなに話題になるんだと気がついて、学生ボランティア団体を立ち上げて聴覚障害者向けの娯楽番組を作り始めました。でも当時はまだ動画の共有は一般的でなく、一生懸命作りこんで配信してもなかなか広がっていきません。でも、聞こえない人たちと一緒に番組を作るうち、彼らが110番や119番をすることすらできずに困っているという話を聞いて、バラエティ番組以上にこれは切実な問題だ、それに対処するにはボランティア団体ではなく、法人として継続可能な形で取り組まなくては、と思い至り、大学2年の時に起業しました。
「手話を一般的なもの、レギュラーなものにする」という最終目的に向かって、まずは110番のような最低限、社会にとって必要なインフラを整えてゆく。国を動かすためにはまず民間に働きかけよう、ということで、公共性の高い機関や大企業に対して、遠隔手話通訳サービスを提供することから始めたのです。