インターンシップで難民支援の活動
自身のマイノリティの権利意識と重なる
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アメリカの大学院に留学中、国連機関でインターンシップをする機会に恵まれました。そこで国連職員に求められる資質を内側から見ることができ、「もしかしたら自分にもできるかもしれない」と感じ、調べたら日本の外務省が若手を国連機関に派遣するJPO (Junior Professional Officer) という制度があることを知りました。年齢制限ギリギリだったので「これは今やらなきゃ!」と、在学中でしたがチャレンジしたところ合格。マスコミの世界には戻らずに、国連機関に移ることを決意し、当時、緒方貞子さんがトップのUNHCRに勤務することになりました。マイノリティであるがゆえに弾圧・迫害されて故郷に戻れなくなった難民を支援する組織は、自分のマイノリティの権利意識と重なっていると感じ、やりがいがありました。
その後2011年に組織を離れ、フリーランスのジャーナリストとして活動するようになった1つのきっかけは、東日本大震災でした。当時、日本にいた私は、日本自身が避難民を抱えている現状に、海外で培ってきた知見が役立つかもしれないと考えたのです。もう1つは、震災後に来日したブータン国王夫妻をきっかけとしたブータンブームです。ブータンは「幸せの国」として注目されましたが、私は国籍はく奪にあい、国を離れざるを得なかったブータンからの難民たちに寄り添った活動を長くしていたため、幸せだけの国ではないと知っていました。それなのにマスコミは一切そこには触れません。難民のことをここまで知っている自分が口をつぐむわけにはいかない。でも国連職員として書いてしまったら角が立ちます。そのため、2011年いっぱいで国連職員を辞めたのです。
この時期は一個人として何ができるかをすごく考えた時期であり、さまざまな勉強会に行く時間も持てて、「大きな組織を離れても、自分が信じていることに拠って立って生きていける」ことが皮膚感覚でわかりました。これまで完璧主義だった私は、「どうにかなる」と、いい意味でのおおらかさも身につきました。
その後、国連での経験とマスコミでの経験とを統合して役に立てる仕事だと感じ、国連広報センター所長の一般公募に応募して、現在に至っています。いろいろな転機がある中、私は「やってみたい」「楽しそう」と思う方に舵をきっていました。とくに女性は出産や育児、介護などライフステージにより、常に全力疾走するわけにはいきません。同時にいくつものことをこなす中、「何を最優先にすべきか」を考えて決めることが大事だと思います。