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Vol.036 2016.09.16

シュアール代表、手話通訳士
大木 洵人さん

<後編>

一人ひとり得意を伸ばして
補い合えば
組織は大きく飛躍する

シュアール代表、手話通訳士

大木 洵人 (おおき じゅんと)

群馬県生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院情報学環教育部修了。聴覚障害者と聴者が本当の意味で対等な社会を目指し、大学2年生だった2008年に「シュアール」を創業。手話ビジネスを展開している。シュアールグループ代表、手話通訳士。そのほかアショカ・フェロー、世界経済フォーラムグローバルシェイパーズコミュニティ福岡代表などを歴任。

これまでボランティアの枠組みで語られることの多かった手話に関する取り組みを、ITを活用した「遠隔手話通訳」や「オンライン手話辞典」といったビジネスとして展開、大きな期待を集めている起業家の大木洵人さん。20代後半ながら、世界経済フォーラムやアショカなど、世界的な社会活動団体にも認められ、多忙な日々を送る彼は、聴覚障害に対する世間の誤解と格闘しつつ、大きな夢に向かって邁進しています。もともとはおとなしい少年だった彼を変えたものとは?そしてその人生観に影響を与えたものについてお話をききました。

目次

高校時代の米国留学体験が大きな転機に

大木洵人さん

小さい頃の夢は、父と同じプロゴルファーでした。その後、中学2年の時に憧れ始めたのが戦場ジャーナリストです。中学2年生の夏休みだったでしょうか、何気なくインターネットを見ていたら、戦場で兵士に銃を突き付けられた母親が子どもを守ろうとしている写真が目に飛び込んできました。僕らは日常、テレビで人が殺されるドラマを見たりしているけれど、ドラマはあくまでドラマ。でもこの写真の次の瞬間には、実際に人が亡くなってしまったかもしれません。そういう写真を撮って世の中に伝える、訴えることができる戦場ジャーナリストってすごい仕事だ、と思ったんです。

この仕事に就くには、英語が不可欠だと思い、高校3年の時に米国ミシガン州の高校に1年間留学しました。しかし、はじめは差別もされて苦労しました。何を言っているかは分からなくても、すごく嫌な顔をしながらぼそぼそっと言葉を吐かれれば、さすがに内容の見当はつきます。ホストファミリーの家の自分の部屋で枕に向かって叫んだり、雪に向かって叫んだりしたこともありました。

でも、僕は人と話すのが大好きだったので、「you」「I」「like」「yes」みたいな、ごく少ないボキャブラリーを駆使しながらしきりに話しかけていたら、そのうちみんな「面白いやつ」と打ち解けてくれるようになりました。その高校ではジャーナリズムを専攻して、スポーツカメラマンの実習をやっていたのですが、アメフトの試合の撮影に行くと他の生徒がブースで撮っているのを尻目に、許可されていたコートぎりぎりまで迫って撮影して、「あんなところで撮っているクレイジーな日本人がいる」と人気者になってしまったことも(笑)。そんなことで、全校の人気投票で1位に選ばれるほど溶け込めましたし、7ヵ月くらいで気が付いたら英語が飛躍的に聞けて、話せるようになっていました。

大木さんが手話を始めたきっかけとは?

大学入学後に手話サークルを立ち上げて紅白出演

大木洵人さん

高校時代は、ジャーナリストになるためのひとつの目標として「写真甲子園」の出場を目指していました。でも毎年、関東大会の決勝で敗れてしまいました。留学に行って“もっと広い世界があるのかも”と感じていたのもあり、写真甲子園関東大会決勝敗退の結果を受けて、「もしかしたら写真とは少し距離を置いたほうがいいのかもしれない」と考え始めました。そして、それまでは写真学科のある大学への進学しか考えていなかったのですが、総合大学に志望を変えて、広々としたキャンパスが気に入った慶應義塾大学環境情報学部に入学しました。そこは入学時には専攻を決める必要がなかったので、1学期は自分の幅を広げようと思い、外交から朝鮮語、バイオ、ビジネス、プログラミングまで、いろいろな科目を選択。その中で一番面白かったビジネスを2学期から集中的に学び始めました。

そのころ同時に始めたのが手話でした。身近に手話を使う人がいたわけではありません。実は中学2年の頃、テレビでたまたま手話講座を見かけたのですが、「なんてきれいな言語だろう」と感じたことがありました。その体験が心のどこかに残っていたのか、大学に入ったら手話サークルに入りたいと思っていました。でも入学してみたら手話サークルがありませんでした。そうしたら1年生の夏休みに同級生がたまたま“手話を一緒にやらないか”と声をかけてくれて、2 学期に入ってサークルを立ち上げたんです。その3か月後に、大学の先輩である一青窈(ひととよう)さんから、紅白歌合戦に手話で共演しませんかというお話をいただきました。でもまさか、僕らが立ち上げて3か月のサークルだとは思わなかったそうです(笑)。

紅白に出たことでたくさんの取材を受けるうち、手話の娯楽が少ないからこんなに話題になるんだと気がついて、学生ボランティア団体を立ち上げて聴覚障害者向けの娯楽番組を作り始めました。でも当時はまだ動画の共有は一般的でなく、一生懸命作りこんで配信してもなかなか広がっていきません。でも、聞こえない人たちと一緒に番組を作るうち、彼らが110番や119番をすることすらできずに困っているという話を聞いて、バラエティ番組以上にこれは切実な問題だ、それに対処するにはボランティア団体ではなく、法人として継続可能な形で取り組まなくては、と思い至り、大学2年の時に起業しました。

「手話を一般的なもの、レギュラーなものにする」という最終目的に向かって、まずは110番のような最低限、社会にとって必要なインフラを整えてゆく。国を動かすためにはまず民間に働きかけよう、ということで、公共性の高い機関や大企業に対して、遠隔手話通訳サービスを提供することから始めたのです。

大木さんから子育て中の親御さんへのメッセージとは?

あせらずに待つこと、親自身も夢を持つこと

大木洵人さん

今、子育て中のお父さん、お母さんには、子どもが今、何のとりえもないように見えたり、ダメな子に見えたとしても、あせったり悲観する必要はない、とお伝えしたいですね。その子のギフト(才能)は今あらわれていないだけで、ずっと後に顔を出してくるのかもしれません。

例えば公文をやっていて、うちの子はなぜなかなか進まないのかしらと思っても、それはその子が、自分の苦手な部分を知って復習する機会が得られたということ。そこで学んだことはきっと次に生きてきます。他の思いがけない分野にギフトが見つかるかもしれません。公文って、それを待つのにはすごくいい“場”だったと感じます。僕は数学を早く終えたあと、国語や英語をやっていて、自分が好きな科目ではなかったのでつらさもありました。でも、急かされず、マイペースでできたことで、プレッシャーはかからなかった。だからこそのびのびと、夢を持って今日まで来れたと思います。

もうひとつ、子どもの夢探しや夢の追求を応援するだけでなく、親御さん自身も夢を持って、追い続けて欲しいですね。実は僕の母は、専業主婦から公文の指導者になりました。僕が公文をやっているのを見て「これはいい」と感銘を受けたそうです。そして多くの子どもたちに公文を広めるということに自分の夢を重ね、僕が公文を終える頃、先生を始めたんです。子どもにとって、そういう親の姿を見るのは嬉しいものなんですよ。

今後のビジョンとしては、シュアールの事業のグローバル展開を進めていきたいと考えています。今、日本の企業が海外企業に押されがちな分野もありますが、手話の分野においては、まだ僕らが世界をリードできる可能性が残っていると思っています。特にオンライン手話辞典については、シュアールが日米韓で特許をおさえていて、リードをとっています。ここに関してはシュアールにはかなわない、という揺るぎない存在となって、そこで得た利益をしっかり社会に還元できるような状況を作っていけたら、というのが僕の目標です。

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関連リンクシュアールグループ


大木洵人さん 

前編のインタビューから

-手話×IT、シュアールで手掛けている事業とは?
-手話ビジネスを展開する上での困難とは?
-大木さんの意外な子ども時代

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