聾の女優が当たり前に活躍できる日を夢見て
5歳のころ |
14歳のころ |
初めてミュージカルに参加したのは17歳のとき。そのときに出会ったのが芝居という世界です。20歳のときには映画に出演しました。オーディションに受かり、プロの女優さんを拝見して、「本当に上手なんだなぁ」と感銘を覚えました。今まで自分がやってきた仕事とはまったく違った。それからですね、お芝居に興味を持ったのは。
芝居の世界では、周りは聴こえる方ばかり。一方私は聴こえません。皆さんは演劇のワークショップなどでいろいろな経験を積んでいましたが、私は最初ほとんど何もできませんでした。だから本当に少しずつ少しずつ覚えながら身につけていった感じですね。
聾の俳優というのは人数がたいへん少ないです。私は聾の俳優がもっと増えて、もっと普通にテレビ番組などで手話で活躍する姿を見てみたいなと思っています。そのためにはまず自分ががんばらないといけない。その姿を聾の子どもたちが見て、私と同じように女優を目指してがんばってくれたら嬉しいです。私がかつて聾の女優さんを見てそう感じたように。
「夢は口に出す」と、母は教えてくれた
子ども時代の私は……そうですね、もしかしたら、ちょっと変わっていたかも。ボールペンを分解したりクリップを分解したり、どういう仕組みになっているのかを見るのが好きでした(笑)。分解して、それをまた組み立てて、それで「あぁペンはこうやってできているのか」と知ることが楽しかったんですね。
活発でもあったので、家の外で遊ぶのも好きでした。父と母と姉の4人家族で、休みの日はいつもどこかしら遊びに行っていました。山登りに行ったり、釣りに行ったり。姉と私と母は姉妹みたいな感じで今もとても仲がいいです。母は、「私も仲間に入れて!」が口ぐせのようでした(笑)。気持ちが落ち込んだときは話を聞いてくれる。話すだけでホッとできる家族ですね。あまりにわが家の女子3人が仲がいいので、父はたまにやきもちをやくくらいです。
母は自宅での仕事を持っていて、いつも忙しくしています。だけど仕事をするのがとても楽しそうで。あらためて母の仕事に対する姿勢を尊敬しています。どうすればこの仕事はうまくいくのか、みんなに喜んでもらえるか、そういう工夫を怠らない人です。たとえば、母は毎年お正月に仕事の目標を立てるんです。そして1年間で必ずそれを達成していた。そしてまた新たな目標を立てて、達成して……その実行力ですね。そういう母を見ていたので、私もぼんやりはしていられないなと。
「夢は口に出す」というのも母の口ぐせ。やりたいことは、ただ心に思うだけではなく口に出すことで、誰かがそれをつなげてくださるよ、と。私がポジティブなのは、家族のおかげ、とりわけ母の影響だと思います。心が折れそうなとき、家族の絆が支えになったことは間違いありま せん。
公文とバレエがくれた「自信」
家族はそうやっていつも私に、前向きに生きる大切さを示してくれました。そういう点ではバレエの影響も大きかったですね。バレエを習い始めたのはちょうど音が聴こえづらくなったころ。周りは聴こえる子どもばかりのなかで、やはり苦しいこともありましたし、反抗心もありました。しかしバレエは聴こえないからダメということはまったくなく、身体で表現することができると分かってからは、それが私に生きる勇気を与えてくれました。
それは公文も同じです。私は数学・英語・国語とも最終教材まで公文を続けましたが、やめたいと思ったことは一度もありませんでした。どうしてかといえば、公文のおかげで中学と高校の数学の成績がすごく良かったんです! トップにもなれたので、公文のプリントはちゃんとやろうと(笑)。公文の勉強もバレエと同じく私に自信をくれました。それは間違いなく今の私につながっていますね。
何がどう作用するかは本当に分からない。だからまだ夢が見つからない人たちも、決してあわてず、自分のペースで進めばきっと大切なことに出会えると思います。経験はすべてつながっていて、それが夢を支える力になるので。夢が見つかったなら、一生懸命それに向かってがんばればいい。だけどあまりそれだけに集中しすぎないで、幅広くさまざまなことを経験したほうがいいと思います。
私も『みんなの手話』に出演してから、フェイスブックやインターネットを通じて、多くの人とつながることができました。「メールで手話を教えて欲しい」って頼まれることも多いのですが、なかなか文章で手話を表現するというのもむずかしくて……。でも手話に興味を持ってくれるのが嬉しい。女優になることと手話を教えることは、直接的には結びついてはいませんが、気持ちを表現するという点ではすごく勉強になるんですよ。
関連リンク
NHKみんなの手話
後編のインタビューから – 高校のころから聴力がどんどん落ち、母の声が完全に聴こえなくなったけれど… |