「経済学のプロになる」ことをたたき込まれた修士時代
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さて、私は東京の私立中高一貫校に進学するため、中1で親元を離れ、にぎやかな家族から一転、1人下宿生活を始めました。東京の学校がどんなところかよくわからないままの進学でしたが、とくに抵抗感はありませんでした。陸士出身の父からすれば、昔の子どもはそのくらいの年で親元を離れていたのだから大丈夫、との思いがあったようです。中学・高校は質実剛健で自由、大家さんご一家には大変良くしていただきましたが、親元はなれての下宿生活だったため、自主性は育ったかもしれません。
経済に関心をもったのは高校時代からです。数理的な教科が好きで、なおかつ人間行動にも関心がありました。人の活動の根本にあるのは「お金=経済」であり、それによって人が動くことに興味が湧き、経済学部へ進みました。転機は大学2年の終わりころ。3年からゼミが始まるので何を勉強しようかと、書店で本をパラパラめくっていたら、渡辺利夫先生の『開発経済学――経済学と現代アジア』(日本評論社)という本に出会いました。
当時NICs(新興工業国)と言われていた韓国や台湾などは成長しつつある一方、バングラデシュなど南アジアは成長しておらず、それはなぜかを、データと簡単な数理モデルを織り交ぜて実に手際よく示していて、「おもしろい!」と思ったのです。
慶応大学で大変な人気ゼミだった高梨和紘先生の開発経済学ゼミに幸運にも入れていただき、途上国とくにアジアに興味をもつようになりました。同じころ友人とタイへ行き、日本では見ないような光景の数々に強い印象を受け、貧困問題への関心が高まりました。
大学卒業後は、実家から通える大阪大学の修士課程へ進みました。当時の日本の経済学はまだマルクス経済学も根強かったのですが、阪大の経済学部は100%近代経済学で完全にアメリカ型の大学院プログラムを導入していました。最初の1年間は徹底した詰め込み教育。修士課程にもかかわらず全て講義形式の授業で、宿題や期末試験もありました。ガリガリ徹夜で勉強せねばならず、正直面喰いました。ところが、ここで徹底的に学んだことが非常によかった。どんな学生でもステップ・バイ・ステップで研究者の入り口までたどり着くことができる仕組みで、経済学のプロになるということをたたき込まれたのです。ここでの学びが、自分の研究者としての礎になったと言っても過言ではありません。
関連リンク
東京大学大学院経済学研究科・経済学部
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後編のインタビューから -アメリカで得たのは人との「出会い」と「つながり」 |