体の柔らかさを“発見”され、4歳でバレエを習いはじめる
『ラ・バヤデール』 |
バレエを習いはじめたのは4歳のときです。家族にはバレエをやっていた人はいないのですが、幼稚園の体操の時間などで、「まゆかちゃんは体が柔らかいね」とよく言われたそうです。それで両親が「この子はもしかしたらバレエに向いているんじゃないか」と思い、近所のバレエスタジオに通わせてくれたんです。
はじめてみると、周りの子たちよりも体が柔らかく、最初から頭近くまで足が上がったり、ストレッチをしてもペタッと額を床に着けることができました。わりに覚えが速かったこともあって、どんどんのめりこんでいきました。とにかく楽しくて、練習が面倒になったりバレエが嫌いになったりすることは一度もなく、「もっともっとできるようになりたい!」という気持ちでレッスンに通っていましたね。
そのバレエスタジオの同期に、のちに親友にしてよきライバルになる女の子の存在があったことも大きかったです。彼女とは小学1年のとき、生まれて初めての発表会で同じパートを踊りました。今でも大親友で、彼女も海外でプロのダンサーとして活躍しています。
小5の短期留学を機に、プロのバレエダンサーを目指す
バレエダンサーを目指すきっかけは、小学5年のときの短期留学でした。英国のバレエ学校に、1週間だけですが留学させてもらったんです。母も同行してくれましたが、現地では私は学校の寮に寝泊まりするので、母はそのあいだ別行動でした。外国人のなかで日本人は私ひとりきりでしたが、もともと人見知りをしない性格だからでしょうか、あっけらかんとしていたようです。言葉についても、小学1年から公文で英語を学習していたおかげか、特に違和感を感じることもなかったですね。
その留学中、たまたまロンドンで英国ロイヤルバレエ団のガラ公演を観る機会がありまして、そこにちょうど熊川哲也さんが出演していたんです。『ドン・キホーテ』のグラン・パ・ド・ドゥだったのですが、演技が終わると拍手と歓声の嵐。これを観て、「プロとして踊るというのはこういうことなんだ!」と大きな衝撃を受けました。
それまでも、小学校の文集などに「将来はバレリーナになりたい」と書いてはいたのですが、いまふり返れば漠然とした夢だったんだと思います。熊川さんの踊りを間近に観たことで、ただ踊るだけでなく、“お客様からの喝采を浴びることができるダンサーになりたい”という具体的な目標をもて、本格的に海外で修業をしたいと思うようにもなりました。
中2で留学を決意、けれど不安に押しつぶされそうになり泣いてしまったことも…
本格的な留学を決意したのは中学2年のときでした。ふつうに考えると、中2では早いと感じられるかもしれませんが、バレエの世界では、筋肉が育ちきってしまう前に、動きに癖がつてしまう前に、きちんとしたメソッドで学んだほうが良いという考えがあり、若いうちに留学する人が多いのです。
志望校を選ぶにあたっては、最初は「英語圏の学校がいいだろうか?」とも思いましたが、私の憧れのバレエダンサー、中村祥子さんが、ドイツのシュツットガルトにあるジョン・クランコ・バレエスクールのご出身で、「素晴らしい先生方に出会えた。この学校で学べてよかった」とある雑誌の記事でコメントされていたのを読んで、「私もこの学校で学びたい!」と思い、オーディションを受けました。正直なところ、多くの人が選ぶ英語圏の学校にも興味はありましたが、人と同じ道を行くより、自分の選んだ道を行ったほうがいいのかな…と思い、決断しました。
幸い合格できたものの、日本を出発するまでのあいだ、「ほんとうに行くの?私」「だいじょうぶかな…」と気持ちがゆらぎ、不安に押しつぶされそうになり泣いてしまったこともありました。けれど、あの学校でバレエを学びたいという強い気持ちが勝って、ようやく出発できました。
ところが、いざ学校に入ってみると、挫折の連続でした……。それまでいた日本のバレエスクールではいつもトップを争っていたのが、ここではレッスンについていくのが精いっぱい。上には上がいることを身にしみて感じ、世界のレベルを垣間見た気がしました。
入学したバレエスクールは、入学時12人・卒業時2人という厳しさ
2014年12月、Kバレエカンパニー『くるみ割り人形』にマリー姫役で初主演予定。 公演期間:2014年12月20-26日(浅野さん主演は20日ソワレと23日マチネ)、会場:赤坂ACTシアター |
先生にもよく叱られましたね。ポーズをとったときに形ができていなかったり、昨日言われたことができていないようなときは容赦なく指導されましたし、教室の外に出されることもありました。最初はただ叱られていると思っていましたが、そのうち、「教える側の先生方も必死なんだ。私たちをなんとか伸ばしたいと思ってくださるから叱るんだ」と感じるようになりました。そうすると、「叱られているうちが華で、何も言われなくなったらおしまいだ」と思えるようになり、必死にくらいついていきました。
苦手だったのが、即興の授業です。バレエには『白鳥の湖』や『くるみ割り人形』など、おなじみの演目に代表されるいわゆる「古典」の作品のほかにも、アート性の高い「コンテンポラリー」と呼ばれるジャンルがあります。コンテンポラリーの授業は週2回あったのですが、ときどき「音楽を聴いて感じたことを即興で踊りなさい」というレッスンがあるんです。どちらかといえば控えめなメンタリティーの日本人は与えられたものを一生懸命こなすのは得意だけれど、「自由に」となると途端に固まってしまう傾向があると言われることが多く、私もそうでした。そして、その殻を打ち破るのにとても苦労しました。
とはいえ、日本人ならではのきまじめさ、持ち前のあきらめない心で何とか5年後に学校を卒業することができました。入学したとき12人いた同期は、卒業のときには私を含めたったのふたりになっていました。それだけ厳しい世界だったんです。
関連リンク
Kバレエカンパニー
後編のインタビューから – 帰国し19歳で入団したKバレエカンパニーでは、順風満帆とはほど遠い日々が続いた |