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Vol.068 2020.03.06

バレエダンサー
ニコライ・ヴィユウジャーニンさん

<前編>

「石の上にも三年」の気持ちで
一歩一歩進んでいけば
も登れる

バレエダンサー

ニコライ・ヴィユウジャーニン (ニコライ・ヴィユウジャーニン)

ロシア・ペルミ州生まれ。6歳よりバレエを始める。ロシア国立ペルミ・コレオグラフィー・バレエスクールで学んだ後、1998年ロシア国立ペルミ・オペラ・バレエ劇場に入団。2000年にソリスト昇格。ペルミ国際バレエ・コンクールで金賞/ミハイル・バリシニコフ賞などを受賞。ヴァルナ国際バレエ・コンクール ファイナリスト、審査員特別賞受賞。2005年、ペルミにてディアギレフ賞を受賞。同年リムスキー・コルサコフ記念劇場にプリンシパルとして移籍。2007年1月、Kバレエ カンパニーに入団。同年9月ソリスト、2011年9月ファースト・ソリストに昇格。2015年7月よりフリーダンサーとして活動を始める。

6歳からバレエをはじめたバレエダンサーのニコライさん。生まれ育ったロシアでダンサーとして数々の賞を受賞するなどして活躍後、2007年に来日し、熊川哲也氏率いるKバレエ カンパニーに入団されました。現在、フリーのバレエダンサーとして、またバレエ教師として各地を飛び回っています。来日当初は「こんにちは」くらいしか話せなかったそうですが、公文式教室に通うなどして日本語力を高め、今ではインタビュー中にことわざが飛び出すほどです。バレエダンサーを目指した理由や日本に来たきっかけ、ロシアと日本とでの違いなどについて、ユーモアも交えながら日本語でお答えいただきました。

目次

プロダンサーとして各地で公演
バレエ教師として大人や子どもにレッスンも

ニコライ・ヴィユウジャーニンさん

私はフリーのクラシックバレエのプロダンサーとして、各地で開かれるバレエコンサートなどにゲスト出演するほか、バレエ教師として、現在は5ヵ所の教室で教えています。最近では、東京・町田市のバレエ教室のコンサート「ロミオとジュリエット」にゲスト出演しました。

追ってお話ししますが、ロシアではプロを目指す学校があり、またプロダンサーとしての地位が確立されていますが、日本ではバレエは趣味でやっているという人がほとんどです。プロを目指すならレッスンは大変ですが、趣味でなら楽しくできればいいと思います。私が教えた生徒で「プロになりたい」という人は今までいませんでしたが(笑)。

そんな大人の方々には、まず基本のバレエのポーズを説明しながら教えます。じつはバレエの動き方など、バレエ用語はフランス語やイタリア語が多いので、それらの意味を日本語で説明します。最初に教えるのは、手と足の位置や形です。軸足の大切さもしっかり伝えます。

ただ、子どもたちに教える場合は、形をしっかりつくることよりも「ちゃんと音を聞いているか、テンポを理解しているか」を重要視しています。音やリズム、速い動き、ゆっくりした動きなどを手で表すようなレッスンをします。子どもに教えるときは、ちょっとした工夫が必要です。子どもは15分もすると飽きてしまうでしょう?だからジャンプしたりクルクル回ってみたりと、遊びを取り入れながら楽しくできるようにしています。

レッスン内容は、オリジナルで考えたりするほか、私自身、6歳からバレエを習っていたので、当時習っていたことを思い出したりしながら教えています。

森に囲まれたロシア・ペルミでの思い出

バレエスタジオに行くフリをして
ずっと滑り台で遊んでいた

ニコライ・ヴィユウジャーニンさん

私はロシアのペルミという人口100万人ほどの街で生まれました。中心部は都会ですが、周辺は森で、自然豊かなところです。父も母も医師で、私の下に弟と妹がいます。私は活発な子どもで、いろんなところを登ったりジャンプしたりと、じっとしていることはありませんでした。5歳くらいから音楽を聴きながら自然に体を動かしていたそうです。ビルの8階に住んでいましたが、エレベーターがしょっちゅう壊れるので、いつも階段を楽しく走り上っていましたね(笑)。全然つらくなかったです。

父が休みの日には、一緒に森へ行き、スキーをしました。左右のスキー板を平行にして交互に前後させて進む「クラシックスキー」を、2時間くらいするんです。すごく楽しかったですよ。5歳くらいのとき、体を動かすのが好きな私に何かやらせたいと思った母の意向で、フィギュアスケートのオーディションを受けることになりました。そのときスケート靴を持参しなくてはならなかったのですが、私の足に合う小さいサイズの靴がなかったので、フィギュアスケートではなく、バレエスタジオに通うことになりました。

ロシアはバレエが盛んな国とのイメージがあるかもしれませんが、女の子ならともかく、バレエを習う男の子はロシアでも少数派です。じつは私も気が進みませんでした。そのバレエスタジオは自宅から5㎞ほど離れていて、歩いて通わなければなりませんでした。ところが私は行きたくなかったので、「行ってきます!」と家を出て、スタジオの前まで行って中に入らずに、近所の滑り台でレッスンが終わる時間まで遊んでいました。マイナス20度の外で、です(笑)。

その滑り台は日本の公園にある小さな滑り台とは全然違っていて、3階建てのビルくらいの高さがあって、スリル満点でとても楽しかった! 1ヵ月の間ずっとそのような状態でレッスンに出ていなかったので、先生は、私がもう辞めたのではないかと思っていたそうです。でもあるとき母が月謝を払いに行き、私がサボっていたことが発覚してしまいました。

渋々バレエのレッスンに戻った私ですが、ジャンプもあるし、バレエもだんだん楽しくなってきました。ただ、滑り台のほうがもっと楽しかったですけどね。レッスンにこうして通ううちに、先生からプロになるためのバレエ学校へのオーディションを受けることを勧められ、受けてみたら合格することができました。私よりも母のほうがものすごく喜んでいました。

国立のバレエ学校に合格、バレエダンサーの道へ

日本人女性と結婚して日本へ
Kバレエ カンパニーに入団

ニコライ・ヴィユウジャーニンさん

こうして9歳からはバレエ学校へ進むことになりました。それまでは普通の地元の小学校に通っていましたから転校するわけです。友だちと別れることになり、人生またやり直しですね。そこはプロダンサーを目指して、遠くから生徒が集まってくるような学校で、朝バレエのレッスンをした後に、国語や算数など学校の勉強をするというプログラムでした。

入学して5年間くらいはあまり真面目な生徒ではなく、やめたいと思うこともありました。プロを目指して頑張ろうと思うようになったのは14歳のときです。自分は6歳からプロの先生にバレエを習っているのだから、ちゃんと一生懸命やったほうがいいと思うようになったのです。それから17歳の卒業までの最後の4年間はとても頑張りました。学校では半年に1回、実技試験があります。良い成績を取らないと“クビ”ですから必死でした。この学校を卒業するとプロダンサーの免許がもらえて、バレエ団への入団が可能になります。バレエ学校卒業後は国立ペルミ・オペラ・バレエに入団し、プロダンサーとしての道を歩み始めました。

その後、ペルミで知り合った同じダンサーの日本人女性と結婚しました。そして息子が生まれ、しばらくペルミに住んだ後、同じロシアのサンクトペテルブルクのバレエ団に移りました。その後、妻と息子のビザの関係で日本で生活することを選び、2007年に来日しました。実は同じ頃、私が所属していたバレエ団が解散状態になってしまうという出来事がありました。このことも日本に住むことを決めた理由のひとつです。幸い、来日後はKバレエ カンパニーへの入団も決まりました。

後編を読む

関連リンク日本語学習者の現在(いま)・夢・目標―動画レポート|KUMON now!公文式日本語


ニコライ・ヴィユウジャーニンさん   

後編のインタビューから

-公文式日本語教室での学習
-来日13年、ニコライさんの感じるロシアと日本の違いとは
-今後の目標、学び続ける皆さんへのメッセージ

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