「医療と法律を分野横断できる法律家」
として精力的に活動
弁護士として活動している私は、医療と法律の両分野を横断できる法律家をめざして歩んできました。「医療と法律の両分野を横断する」とはどういうことか、現在の私の仕事内容をご紹介しましょう。
具体的には4分野に分けられます。1つは、医薬、医療機器、化粧品・健康食品などのヘルスケア業界の国内外の法的規制に関する調査や法的助言です。たとえば、国内外で新規にビジネスを立ち上げたいというクライアントに対し、法的規制がどうなっているか、どうしたら参入できるかなど法的なアドバイスをしています。
2つめは、知的財産に関する分野です。共同研究やライセンスなどの知的財産権が関係する契約書の作成や法的助言などをしています。3つめは、医療法人の活動のサポート関連です。事業承継や労使関係、また医療過誤を巡る争いにおける訴訟手続きなどを行っています。
そして最後が、医療研究機関における資金の不正使用防止への取り組みに関する分野です。ここには、国立研究開発法人において法的助言をしてかかわっています。
弁護士の醍醐味は、やはり法廷での証人尋問です。緻密に事実を積み上げた結果、逆転勝訴するようなケースでは、とくに大きな達成感を感じます。何より、このように成果を出してクライアントから感謝されたり信頼していただけたりすると、とても大きなやりがいを感じます。
じつは私は、子どもの頃は弁護士ではなく、医療にかかわる仕事に就きたいと思っていました。その理由は2つあります。1つは、両親が高齢であることです。私は両親が40代のときに生まれたので、自分が大人になったとき、親が病気にかかるリスクが高いという意識が強くあり、その治療ができるようになりたいと考えたのです。もう1つは、野口英世の伝記を読んだことです。世界には不治の病で苦しんでいる人がいること、その根絶のために身を挺した先人がいることを知り、深い感銘を受けました。そして医療関係者としてそういった病気の研究に携われば、両親や身近な人たちだけではなく、世界中の人に貢献できる、自分もそうなりたい、と思うようになりました。
このように考えるようになった背景には、両親の育て方や価値観も大きく影響していると思います。両親は、常に私に対して「自分たちの利益だけを考えるのではなく、他人や社会の役に立つ人に成長してほしい」と言っていました。そのため、「自分の力を、他人のために役立てたい」という思いは、人一倍強く意識の中にあったと思います。また、両親は、「どんなことにも意欲を発揮し、常に前向きに取り組んでほしい」「決めたことをやり抜いてあきらめなければ、どんな夢でもかなう」と、私がやりたいことはいつでも全力で応援し、常に私を信じて励ましてくれました。「野口英世のような人間になりたい」という、普通の子どもにとってはかなり高いハードルも、そんな姿勢の両親がいたからこそ、自然に設定できたのかな、と思います。
友人を心から歓迎してくれた両親のもと
よく遊びよく学んだ子ども時代
両親は、和歌山県で表具工場を営んでいました。お客さまのために、どんなに大変でも妥協せず、最高のものを納品したいと、朝から晩まで、文字通り身を粉にして働いていました。そんな両親の姿は、私にとっての仕事上のロールモデルでもあり、両親のように誠実に、妥協せずクライアントと向き合えているか、いつも自問自答しています。
工場と倉庫が併設された実家は、田んぼや畑が広がる中にあり、自然がとても豊かな環境でした。私は泥だらけで遊んだり、土手滑りをしたり、田舎遊びといわれるものは一通りやりましたね。
両親は、休みになると、忙しい仕事の合間を縫って、私の友人たちも一緒に、バーベキューや川遊びなどに連れて行ってくれました。また、母が子ども好きだったのもあって、普段も、近所の友だちがわが家に来るのを心から歓迎してくれました。母は、時には私や私の友だちと一緒に本気で遊び、自分が一番楽しんでしまうような、子どもと等身大の関係を築く人だったと思います。そのおかげもあって、わが家の居心地がとてもよかったのか、学校から帰るといつも友だちが来てくれて、まるで託児所や学童保育みたいでしたね(笑)。そのため、私は一人っ子でしたが、寂しい思いをしたことはありません。当時の友だちとも長く付き合いが続き、数十年経った今も、たまに会えば懐かしく当時の思い出を語り合える関係です。
また、両親は、勉強に関しても、忙しいにもかかわらず全く手を抜くことなく勉強を教えてくれましたし、私のどんな些細な話も、突き放すことなく聞いてくれました。ですから私は、子ども時代はもちろん、今でも両親とはいろんな話ができます。もちろん危ないことをしたときなど、叱られたこともたくさんありましたが、そういった時も「ダメね」など人格否定するような言葉は一切使いませんでした。また、私ができたことに目を向けて、本当によくほめてくれました。いつでも、私以上に私の力を信じてくれていたことが、何よりうれしかったです。
母は、私が3歳直前に入園した幼稚園の先生から、公文式の教室を勧められたそうです。それで算数をやるようになりました。5歳から国語と英語も始め、小学6年生まで、毎日朝5時に起きてプリントをしていました。
小学校に入学すると、私の家に集まってくれている友だちと早く遊びたい一心で、学校の宿題は休み時間に学校で終わらせていました。授業内容は公文式で先取りしているので、すぐ解けるんです。それで家に帰って思いっきり遊びました。今思うと、遊びと勉強のメリハリがしっかりついていた生活だったと思います。
思考プロセスの基本は公文式で身につけた
公文式は小学校低学年までは楽しみながら進められました。しかし、高学年になると難易度が高くなります。当時好きだったテレビ番組があり、それを観たくて早く終わらせたかったのですが、なかなか終わらない。解けない悔しさや帰宅できない悲しさから、トイレで泣いたことが何度もありました。それでも苦労して問題が解けた時の大きな嬉しさや達成感、そしてどんな時も自分を信じて励ましてくれた両親や公文式の先生の存在を糧に、何とか続けていくことができました。あとは、表彰されて楯をもらったり、進度上位者のつどいに参加したりと、目に見える成果が出るのも良かったです。そういった成果を出したい、それを手にできずここで負けたら本気で悔しい、何とかがんばろうと、くじけそうな気持ちを奮い立たせることができました。負けず嫌いな性格もプラスになったのかもしれません。
公文式の教材は、簡単なものから難しいものへ、基礎的な問題から徐々に応用的な問題になっています。また、応用問題は基礎的な問題の中に必ずヒントがある仕組みになっています。こうした問題を解き続けることで、「目標を設定し、達成する。これを継続して成果を積み重ね、前に進んでいく」という力が身につきました。また、一筋縄では解けないような応用問題を解決するために、「常に基礎に立ち返る」という思考プロセスも、自然に身につきました。このサイクルは今でも習慣となっていて、仕事や生活に大きくプラスになっています。私の生き方そのものが、スモールステップの積み重ねといえるほどです。
そして、つらい時期を、両親、そして公文式の先生の力を借りながら乗り越えてきた私自身の経験から、私は「公文式はチームである」と考えています。単に教材を解いていくだけではなく、その過程で、周りに支えてもらいながら努力することそのものを学んでいけるのではないかと思うのです。ですから、親はもちろん、公文式の先生も、通っている子ども一人ひとりの力を引き出す、とても大事な役割を担っていると思います。たとえて言うなら、子どもというプレイヤーが困難にぶつかったとき、親はサポーターとして、子どもが「できること」に目を向けさせたり、時には一緒に苦しんだりする。そして公文式の先生は、プレイヤーの様子を見ながら適切な課題を出し、その子をさらなる高みへと導く、監督のような位置づけだ、と思います。
中学・高校時代は、親元を離れ、神奈川県にある公文国際学園で学びました。きっかけは、小5のときに参加した公文式の表彰会場がこの学校だったことです。当時は開校間もなくて、これから自由に学校をつくっていこうというところに将来性を感じ「この学校に行きたい!」と強く思いました。夢いっぱい胸いっぱい、ワクワクしながら入学式を待ち望んでいました。
ところが入学式の帰り、両親が涙を流しながらタクシーで帰る様子を見て、「あ、今日から両親とは離れて暮らすんだ」と、急に寂しくなって……。どれだけ両親の存在、注いでくれた愛情が大きかったか気づかされた、忘れられない出来事です。ただ、この6年間で広がった視野が今の自分を作っているとも思うので、断腸の思いで自分たちのもとから手放し、寮生活をさせてくれた両親には、今でも感謝しかありません。
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