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Vol.059 2018.11.09

ジャズヴォーカリスト
古瀬里恵さん

<前編>

何ごとも続けることになる
その力が自信となって
チャレンジする勇気につながる

ジャズヴォーカリスト

古瀬 里恵 (ふるせ りえ)

熊本県生まれ。3歳より姉の影響でエレクトーンを習い、7歳でピアノに転向、進学で上京する18歳まで続ける。獨協大学外国語学部フランス語学科に在学中、ジャズヴォーカリストとして活動を開始。卒業後、来日シンガーの通訳をしながらジャズクラブなどで歌い続け、ダンスミュージック・グループ “Chic(シック)” の元メンバー、ディーヴァ・グレイに師事。2009年より渡仏し、パリを拠点にグローバルな活動を開始。2010年、ベトナム・ホーチミン市で行われた48 Hour Film Projectにて、自身の楽曲を提供した短編映画が最優秀音楽賞を受賞。現在は、熊本民謡をジャズにアレンジするなどオリジナリティあふれる音楽スタイルを確立。

パリを拠点に、ヨーロッパ、アメリカ、アジア、中東とグローバルに活躍するジャズヴォーカリストの古瀬里恵さん。幼少のころから歌とピアノが大好きでしたが、公文式の英語が楽しくて、将来は得意の語学を活かした仕事を、と考えていたそうです。ところが大学2年のとき、ジャズクラブを訪れたことで歌への情熱が再燃。目標に向かい、さまざまな決断と行動を重ね、ピンチを乗り越え、夢をかなえました。じつはその後押しとなったのは、公文式教室での学びだったそう。その「学び」とはどんなものだったのか、夢を実現するために大切にしてきたことなども含めてうかがいました。

目次

    熊本で生まれ育った「パリに住む日本人」として
    「自分にしかできない音楽」を追求

    古瀬里恵さん

    私はパリを拠点に、日本を含むさまざまな国で活動しています。1年のうち、4ヵ月から6ヵ月は日本を含む海外で公演をし、それ以外はパリで演奏、創作活動をしています。

    パリは、言わずと知れたアートの首都。世界中から集まる個性あふれるアーティストが挑戦している街で、コンサート、お芝居、絵画鑑賞などに行くたびに、インスピレーションを受け、創作活動に不可欠なインスピレーションの源となっています。

    今年9月中旬までは2ヵ月半、ハイクラスホテルでの専属演奏契約のため、中東のアブダビに滞在しました。中東は初めての訪問で、行く前は文化の違いに不安もありましたが、現地に行くとその不安は解消されました。やはり音楽は世界共通語なのだと思いを新たにしました。

    ほかにアメリカ、シンガポール、ベトナム、韓国など、これまで8ヵ国で音楽活動をしてきました。地域が違っても、似たような音楽や楽器があり、言語でも似通った表現があるなど、いろいろな文化を知れば知るほど共通点が見えてくるのがおもしろいですね。人も同じで、文化やバックグラウンドが異なっていても、共通点は必ず見つけられると感じています。

    もちろん違いもあります。10年暮らすフランスでは、メンタリティが日本のものと異なります。そして、「自分のアイデンティティは何か」をものすごく問われます。パリに渡った日本人の一人として、音楽を通して何を提案できるかを考えていくと、おのずとルーツをたどることになります。故郷熊本で見た風景、色、思い出、幼少期に聞いた音楽……そんな自分の中にあるさまざまな記憶の引き出しと、現在住んでいるパリで受けるインスピレーションなどが相まって、「私にしかできない音楽」をつくり続けているところです。

    古瀬さんの原点となった公文式での学びとは?

    公文で学んだ英語に自信
    「続けているといいことがある!」と実感

    古瀬里恵さん

    私は4人兄弟の末っ子で、子どもたちの意志を尊重してくれる両親の元で育ちました。3歳でエレクトーンを始めたのは、下の姉の付き添いでレッスンに行っていた母にくっついていったら興味がわき、姉が発表会でスポットライトを浴びて演奏する姿に感激して「私もやりたい!」と思ったのがきっかけです。童謡や民謡を歌い聞かせてくれた母の影響で、歌も大好きで、小さいときの夢を聞かれると、歌手やピアニストと答えていました。

    公文式教室に通うきっかけは上の姉の影響でした。教室についていったら、先生が私にもやらせてくれた教材が楽しくて、「私もやりたい!」と。それで6歳から算数を始め、8歳からは英語も開始。これも私の意志です。教室で先生が「英語はこれから重要になる」とお話をされたその日、帰宅するなり「お母さん、私英語やりたい!やらせて!」と、かけ合ったシーンは今でも鮮明に覚えています。

    公文には高校2年まで足かけ12年間通い、英語は最終教材まで進みました。その間、行きたくなくて仮病を使って休んだこともあります(笑)。でも、先生はすべてお見通し。ときに厳しく、ときにやさしく励まし続けてくださいました。母と連携した愛ある叱咤激励があったからこそ、12年間も通い続けられたのでしょう。教材がどんどん進み、憧れの先生にほめてもらうのもうれしかったですね。

    公文で学んだことが学校で活かされたときは「続けていてよかった!」と心底思いました。とくに英語は授業がわかるだけでなく、ネイティブの方が来校されたとき自信をもって話せて、より好きになるきっかけになりました。公文の教室にも貼ってあったのですが、まさに「継続は力なり」ですね。

    この「継続することでひとつの地点にたどり着く」という学びは、私の原点になっています。私は音大には行かずに、独学と実践でジャズのコードを学び、趣味で続けていたことの延長で、今の仕事となっています。ゆっくりですが、続けていたお陰です。その後パリという挑戦の場に飛び込んでいく勇気を得られたのも、公文に通って学んだ哲学、「やってみよう、やってみなければわからない」のおかげです。

    上京後、ジャズクラブで歌うことに。その出会いとは?

    上京を機にピアノとは疎遠に
    転機は友人に誘われて行ったジャズクラブ

    古瀬里恵さん

    英語が好きになり、中学から洋楽を聴いたり洋画を観たりするようになると、翻訳家に憧れ、英語を使った仕事をしたいと考えるようになりました。

    一方、ピアノも続けていました。ピアノの先生からは音大への進学を勧められましたが、下の姉が音大受験のためものすごく練習している姿を見て、「こんなにやったらピアノを嫌いになりそう……」と思ったこと、また「音楽で食べてはいけないだろう」と考えていたので、英文科を中心に受験しました。

    ところが合格できたのは、滑り止めとして受けていたフランス語学科のみでした。フランスにもフランス語にも当時興味はなかったのですが、大学は卒業しなければと思い、ほかの選択肢はなかったので、そこに入学することに決めました。

    ピアノは上京を機に辞めざるを得なかったのですが、1年も触っていないと「寂しいな」と感じるように。そんなときに友人にジャズクラブに誘われました。これが音楽の道に進むことになった転機です。

    トリオをバックに英語で歌っているシンガーのライブを観て、「なんてステキ!私もやってみたい!英語の発音には自信がある!」と、そのジャズクラブに頼み込んでライブをやらせてもらうことに成功しました。そこのマスターには、「1日ライブができるくらいのレパートリーはある?」ときかれて、実はなかったものの何を根拠にしたか、「あります!」と答えました。この日から毎日とにかくたくさんのジャズを聴き、練習に励みました。そうして初めてのステージ。自分の歌でお金をもらえることがうれしくて、また自信がつきました。

    ジャズクラブで歌っているうちに音楽関係者の知り合いができ、学生の身分で一流ホテルで歌わせてもらうなど、活動の場も広がりました。それを続けることで「就職活動はしない。歌を続けよう」と決めました。

    ただ、一方でじつは、ジャズクラブにお見えになったお客さまで、フランス企業の人事部長の方から「うちに来ないか」とのお誘いを受ける機会があり、最終面接まで進んだこともありました。その場で「歌はやめられますか?」と意思確認をされたことで、初めて父に相談をしました。父は「悩んでいる時点で答えは出ているのでは?」と一言。そこで決心が固まりました。

    後編を読む

    関連リンク 古瀬 里恵オフィシャルサイト 古瀬 里恵Twitter


    古瀬里恵さん  

    後編のインタビューから

    -いよいよ世界の舞台、パリへ。人との出会いから学んだこととは?
    -古瀬さんが夢を実現させていくための原動力とは?
    -古瀬さんから子どもたちへのメッセージ

    後編を読む

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