好奇心旺盛で、「子ども電話相談室」に毎日電話
私の専門は「パブリックヘルス(公衆衛生)」です。パブリックヘルスは、文字どおりみんな(パブリック)が健康(ヘルス)になるための社会づくりを目指す学問です。中でも、多くの人が健康でいられるように、人々にどのように健康の習慣づけをしたら良いのかを研究する行動科学と、病気や健康になる理由を社会的なことに焦点を当てて分析する社会疫学、そして、健康に関することを一般の人にどのように伝えたら効果的かを追求するヘルスコミュニケーションを専門にしています。
現在勤めているアメリカの広告代理店では、たとえばユニセフのポリオ撲滅のコマーシャルなど、人びとが病気を予防し、健康になるような広告をつくっています。人の行動を変え、健康にさせるにはどうしたらいいか、パブリックヘルスの視点が活かされる仕事です。広告主は国際機関や政府・自治体、企業と多岐にわたります。近年は健康分野に関心をもつ企業も増えてきているので、ビジネスと社会貢献をどう結びつけるかといったことも企業と一緒に考えています。
私は成田空港から東に30分、江戸情緒が残る千葉県佐原市(現在は香取市)で、生まれ育ちました。父は建築士、母は料理講師、そして妹1人と母方の祖父母とで暮らしていました。父方の祖父母もすぐ近くに住んでいます。幼いころの私は、とにかくおてんばで制御不能(笑)。興味があったところに飛んでいって戻らず、迷子の放送をされることが何度もあり、家族にはずいぶん心配をかけました。興味の赴くまま、あちこち飛び回るのは今でも変わらず、「三つ子の魂百まで」は本当だと実感しています。
好奇心も旺盛で、いつも「なんで?」と尋ねてばかりいました。小学生時代はラジオの「子ども電話相談室」が大好きで、時間に間に合うよう毎日ダッシュで帰宅。良い質問だとラジオで放送されるので、毎日質問を考え、電話をしていました。
妹は正反対で、公園に行けば砂場でずっと一つのことに集中して遊んでいるようなタイプ。小さい頃から絵が好きで、現在はイラストレーターとして活動しています。
母はこんなにタイプの違う姉妹を比較することなく、それぞれの得意なことを好きなようにやらせてくれました。いただきものをしたら必ずお礼状を書くとか、あいさつはしっかりなど、しつけは厳しかったですが、やりたいと言ったことに反対されたことはありません。父も同じです。そんな育て方をしてくれた両親、温かく見守ってくれた両祖父母に感謝しています。
5歳のころから勉強習慣がついたことが強みに
母は教育熱心で、幼児向けのドリルを買って、私たち姉妹に与えていました。私は「もっとやりたい」とせがんだようです。公文をやっていた私の従兄弟の影響で、母が「公文式学習が合うのでは?」と考え、教室に通うようになりました。当初は算数と国語だけでしたが、私が「英語をやりたい」と言い出し、10歳くらいから英語も始めました。
英語学習のきっかけは成田空港にあります。祖母がいけばなの先生をしていて、講師として海外に派遣されることがよくあり、祖父と成田空港に送迎に行っていたのです。家からわずか30分のところに見たことのない世界が広がっていて、「この外国の人たちはどこから来て何を考え、何を話しているんだろう。この人たちと交流したら自分の知らない世界を知ることができるんだ」と考えると、とてもわくわくしました。そのためには英語が必要だと聞き、英語を勉強したいと思うようになりました。
もともと私は勉強というか、課題を効率良くこなしていき、知らないことを探求していくことが好きでした。地元の小中学校時代は学校の宿題は学校でさっさと終わらせて、家に帰るとランドセルを放り投げて外で遊びに行っていたタイプ。どんどん進みたかったので、「自分のペースでできる」公文式学習は私に合っていました。
公文で得たものは、計算や読解を速く正確にできるようになることはもちろん、私にとって大きかった収穫は、「勉強する習慣がついたこと」です。行動は「習慣」になるとまったく苦になりません。歯みがきも、最初習慣になるまで子どもは嫌がりますが、多くの人が大人になって習慣がつくと1日しなかったら気持ち悪いと思うのではないでしょうか。私は5歳のころから公文を始め、1日1回30分でも鉛筆をもって机の前に勉強する習慣がついたと感じています。ですので、今でも、1日1回は必ず論文や本を読んだり、執筆の時間をとったり、大人になっても「勉強」の時間をとることが私の日常になっています。
電車で1時間半かかる、千葉市の私立高校へ進んでからも、普段の学習は公文と通信教育だけでした。高校まで1時間半かかったのと部活(ラクロス)もやっていたので、遠いし時間がないという理由もありましたし、自分のペースで勉強できるスタイルが自分に合っていたのだと思います。普段は自分で勉強することを基本に、夏期講習や冬期講習で予備校に通ったり学校で先生にわからないところを聞いたりしていました。現役で希望の大学に合格できたことの理由の一つは、自分がやりやすい受験のスタイルを作っていけたことだと感じています。
ジャーナリストの夢を一途に追うも、すべて不採用
子どもの頃の夢は、アナウンサー、新聞記者、ミステリーハンター。この3つ以外考えられませんでした。共通している核は「不思議に思ったことを追求し、表現して、多くの人に伝える」こと。大学時代は、そのためになることなら何でもやりました。事務所に所属してテレビに出たり、アナウンサーになるにはミスコンに出るのが重要と聞けばミスコンに出てみたり。国際問題にも興味があったので、国連でインターンもしました。ただ、今思うと、手段であるはずの職業が、ゴールになっていた気がします。その職業に就くことが人生の幸せだと思い込んでいたのです。
ジャーナリストになりたいと思ったきっかけは、小学生の頃、小学生向けの新聞で子ども記者を経験したことです。当時の宮沢喜一首相を取材後、テレビ局の人に囲まれながら、発言したことがその日のテレビで放送されました。地元に帰ると、みんなにテレビを見たと言われました。子どもながらにマスコミの大きな影響力を実感し、このような刺激に満ちた仕事があるんだと興味をもちました。
そんな夢をかなえるべく、氷河期の就職活動で受けたのは、特定のテレビ局と新聞社、JICAなどの国際協力機関、合わせても10社未満でした。大学時代、自分なりに必要なことに取り組んできたと自負していたので、どこかには受かるだろうと思っていましたが、見事に全滅。しかも、第一志望の新聞社では、3人に2人は受かる最終試験で落ちました。
その最終試験では面接官にこう言われました。「君は伝えたいこと、興味のあることがはっきりしているから、記者になるより、研究者や学者になって自分の名前で専門的なことを書いたほうがいい。個人が個人の名前で書ける時代がくるから」と。今思えばまるで予言ですが、当時はそのようなキャリアパスは思い描けず、新聞記者になるのが、世の中に発信していくための絶対の道だと思っていました。面接終了後も、「うまく説明できなかったので」と、説明文を持参したほどです。それでも落ちたので、ものすごくショックでした。
大学卒業後、アルバイトをしながら、記者になるべく何度か同じ新聞社を受験し続けましたが、ついに書類審査も通らなくなりました。自分は社会から必要とされていないんだと、1年くらい何もせずに家にこもるようになりました。この期間、ごく親しかった数名の友人以外とは、ほとんど連絡をとりませんでした。
関連リンク
マッキャンヘルスケアワールドワイドジャパンマッキャングローバルヘルス(英文ページ)
後編のインタビューから -ハーバード大で感じたアメリカの教育のよさとは? |