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Vol.055 2018.06.22

小児外科医 吉岡 秀人さん

<前編>

「いまの自分」を信じ、
「心の声」を聞いて生きていこう

小児外科医

吉岡 秀人 (よしおか ひでと)

1965年大阪府吹田市生まれ。大分大学医学部を卒業後、大阪、神奈川の救急病院に勤務。1995年から2年間ミャンマーにて医療活動に従事。1997年に帰国し、国立岡山病院、川崎医科大学(倉敷市)で小児外科医として勤務。2003年に再びミャンマーに渡り医療活動に従事。2004年4月、国際医療ボランティア団体ジャパンハートを設立。2017年6月特定非営利活動法人ジャパンハート最高顧問就任。著書に『救う力』(廣済堂出版)、『命を燃やせ ~いま、世界はあなたの勇気を待っている~』(講談社)ほか。

ミャンマーやカンボジア、ラオスなどで無償の医療活動を続ける吉岡秀人さん。2004年に「医療の届かないところに医療を届ける」ことをミッションに、NPO法人ジャパンハートを立ち上げました。いまでは海外のみならず、国内の僻地や離島、大規模災害を受けた被災地の支援のほか、医療人材育成、子どもたちの養育施設の運営など活動の場を広げていますが、そもそもは1995年に吉岡さんがたった一人で始めた活動でした。その力強い行動の源泉は何なのでしょうか。生い立ちを含め、思いを実現するために大切なことについてもうかがいました。

目次

    5歳のとき吹田駅で見た光景が原点

    吉岡秀人さん

    私が最高顧問を務めている「ジャパンハート」は、発展途上国で国際協力を行う医師・看護師を派遣、アジアの子どもを支援する国際医療ボランティア組織です。もともとは1995年に私がたった一人で始めた活動ですが、いまでは多くの日本人が支援してくれています。

    私は最初から「途上国で医者をやろう」と思って医学を学びました。なぜそう思ったかというと、5歳のときに見た光景が原点にあります。当時、吹田駅には暗い地下道があり、そこで手足がない傷痍軍人が物乞いをしていたんです。子ども心に「こわいな」「気持ち悪いな」と感じていました。

    そのころはちょうど大阪万博が吹田市で開催され、世界中から人が来ていました。その同じ時代に同じ街の片隅で、物乞いをしないとならない人がいたわけです。もちろん当時はそんなこと考えませんでしたが、中学生くらいになってから、はたと気づきました。私は1965年8月生まれです。つまりほんの20年前は戦争をしていた。もし20年前に生まれていたら毎日空襲から逃げ回っていたかもしれない。

    また、1965年は中国で文化大革命が始まった年で、多くの死者が出ました。そして同時期にはベトナム戦争もあった。1970年に入るとカンボジアではポル・ポトが大量虐殺を始めた。韓国は80年代まで軍政でした。そこで、わずかな「時空のずれ」に気づいたのです。わずか20年という時間のずれ、わずか飛行機で1時間という空間のずれにより、人の運命が変えられてしまう。いかに偶然のなかで自分が幸せを享受しているかを悟りました。

    それなのに自分はだらだらと生きている。申し訳ない気持ちになりました。そうした思いが心のどこかにずっとあって、いまの自分につながっているわけです。

    吉岡さんが公文式学習で養った力とは?

    公文式で養ったのは「瞬発力」

    吉岡秀人さん

    私の実家は車のシートの縫製工場で、従業員も雇っていました。でもオイルショックの影響で余裕がなくなり、人を雇うこともままならず、私が高校生のときに廃業。生活は苦しかったですね。

    父は私よりも能力のある人でした。しかし貧しさゆえ大学はあきらめ、高卒で銀行に就職。祖父に呼び戻されて工場を継ぎ、春も夏も秋も冬も、ずっと同じ格好で黙々と働いていました。父からは言葉で何かを教えられたことはありませんでしたが、「黙々と働くことの美しさ」を教わりました。

    母は家業を手伝っていて、自己犠牲ができる人。子どもは物心つく前に、安心・安全を約束してくれる母性、10歳前後までに社会性や強さなどの父性が、それぞれ与えられ、成長していきます。私は両親からそこは受けてきたと感謝しています。

    小さいころの私は何をしても飽きっぽく、小学校ではいつもいすをガタガタさせたり、体を揺らしたりして、落ち着きがなく、先生の前が私の指定席でした。でも集中力はあって、中学時代は試験の前日にだけ勉強して、いい成績がとれました。前日は夕方から朝まで徹夜しても、まったく疲れないし眠くもならない。でも素行は悪いし、部活もとくにやっていませんでした。

    公文式の教室に通うようになったのは、妹が通っていたからで、小学校中学年のころから、算数を2~3年ほど続けました。公文の教材では似たような問題をくり返しやるので、当時は「またこれ?」と思っていましたが、いま思うと「筋トレ」と同じ効果があるものだったと思います。軽い負荷がかかるので体でいうところの速筋を鍛えられるのです。それはすなわち脳の瞬発力を鍛えていることになります。とくに数学は、問題を見た瞬間にパパッとストーリーが思い浮かぶと大体解けます。その瞬発力を養えたのは公文式のお陰だと思います。

    吉岡さんが医師を目指すことになったきっかけとは?

    浪人中に受けたある刺激で「心の声」に気づく

    吉岡秀人さん

    高校では一夜漬けではテストの点数はとれずに苦労しました。寝坊しては昼ごろ登校したり、模擬試験を受けに行っても1科目で帰ってきたり、夜は友人の家に集まっておしゃべりしたりゲームセンターに入り浸ったり……。親も仕事で多忙だったので注意をされた記憶はないですね。

    当時は体育科の先生になろうと思い、教育学部をめざしました。現役では合格せず、浪人して予備校に通うことにしましたが、その予備校の入校試験にすら4回も落ちて5回目でやっと合格できました。

    予備校に通いながら、「これから何をしていこう? 本当にしたいことは何か」を考えていたところ、ある刺激によって、自分の人生の方向性が見えてきました。同じく浪人した友人の家に行ったときのことです。友人宅には大学偏差値が掲載されている本があり、彼はその本に目指す学校・学部にところどころマーキングしていました。その本を私がパラパラめくっていると、「医学部」にもマーカーがついていました。

    それを見た瞬間、「あ、医学部に行こう」と思ったんです。5歳の時に見た吹田駅での物乞いの光景がよみがえってきて、「途上国で恵まれない人たちのために働く医者になる」と明確な目標ができたのです。自分の「心の声」に気づいた瞬間です。

    こうした「心の声」は誰にでもあると思います。ただ、どれがそれなのかがわからない。それは、「理性の声」で封じ込め、「心の声」を無視するからではないでしょうか。「こうしたい」という思いを封印してしまうことは、自己否定につながります。そうなると未来は開けない。

    小さいときから自分が本当にやりたいと思っている心の声を無視し続けてしまっているがために、何が本当の自分の声か分からなくなっているのではないかと思います。「心の声」は言い換えれば、「いまの自分を信じる」ということ。それに従って生きていけば、その人の才能のあるところにたどり着くと思います。

    後編を読む

    関連リンク特定非営利活動法人ジャパンハート発展途上国の子供を救え!小児外科医吉岡秀人の戦い


    吉岡秀人さん  

    後編のインタビューから

    -NPOジャパンハートを立ち上げるまで
    -人生はスーパーボールのようなもの!?
    -吉岡さんから子どもたちへのメッセージ

    後編を読む

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