転機は同世代のインドネシア人の助手との出会い
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研究室を転々とした私が、ようやく「これだ」と今の研究に至るようになったのは、修士課程のときインドネシアで調査をした際の、同世代の青年との出会いがきっかけです。熱帯林の森林調査のため、暑い中、重い機械を背負って、植物の光合成や水分の含有量などを測定する毎日でしたが、私の助手として手伝ってくれたのが、日雇い労働者の彼でした。
同世代だったこともあり、コミュニケーションをとりたくて、最初はカタコトのインドネシア語で会話をしました。私は、彼との長いつき合いでインドネシア語を習得したともいえます。彼は、学校の先生になりたくて免許もとったのですが、なかなか実現することができないと言いました。仮に実現したとしても先生の給料は非常に安いとも。一緒に仕事をしていて彼の優秀さはわかりました。それなのに、なぜ夢が叶えられないのか。途上国の現実を突きつけられた気がしました。
一方、自分は修士論文の研究成果を出すために、彼に手伝ってもらっている。熱帯林を研究してはいますが、結局現地の人たちには何のメリットもないのではないかと考えるようになりました。
木ばかり見ているのではなく、もう少し彼らの生活が向上するようなことをしたいと感じて、博士課程では人との関係を考える研究をすることにしたのです。もともと人と話すのが好きでしたが、この青年との出会いが大きな転機となりました。
実は、私は二度マラリアにかかったことがあります。一度目はインドネシアで感染し帰国後に発症しました。入院した病院の医師に家族が「命の危険があり、最悪の場合は覚悟してください」と言われたと、退院後に聞きました。二度目はインドネシアの奥地で発症し、マラリアの薬を飲みながらジャカルタに戻って緊急入院。その後日本に戻ってきたのですが、帰国後も、強烈なめまいに襲われるなど副作用がひどく、回復するのに1か月かかりました。
そうした壮絶な体験をして、フィールドワークは生半可にはできない、精神的にも肉体的にもタフでなければならないと実感しました。そして、このまま研究を続けるべきか、かなり悩みました。悩みに悩んだあげく、自分の人生はこれしかないと結論を出しました。私の研究室に来る学生にもその体験は伝えることがあります。タフさと同時に、人の話を聞いたり、自分の話をするのが好きであること、また開拓精神があることが、過酷なフィールドワークを行うのには大事なことです。