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Vol.028 2016.01.08

柔道家 野村 忠宏さん

<前編>

積み重ね強い自分を作る
父の言葉が自分の柔道人生を導いてくれた

柔道家

野村 忠宏 (のむら ただひろ)

1974年奈良県生まれ。天理大4年時にアトランタ五輪代表となり金メダルを獲得。シドニーで五輪連覇を達成後にアメリカへ留学。2年のブランクを経てアテネ五輪代表権を獲得し、見事三連覇を果たす。その後は度重なる怪我を乗り越えながら現役を続けるも、2015年夏に現役引退を発表。引退会見では、今後の抱負として「若い選手、世界を目指す選手たちを主役に引き上げていきたい。子どもたちに柔道の素晴らしさを伝えていきたい。」と語った。近著に、自叙伝『戦う理由』(学研プラス)がある。ミキハウス所属。

アトランタ、シドニー、そして2年のブランクを経てアテネ……前人未到のオリンピック三連覇を果たした柔道家・野村忠宏さん。「決して強い選手ではなかった」という野村さんがこの偉業を達成した陰には、父・基次さんからかけられた忘れられない言葉があったようです。柔道一家に生まれた幼少期、そして現役時代を振り返っていただきながら、これからの抱負についてもうかがいました。

目次

    あがきにあがいた現役生活

    柔道家 野村 忠宏さん

    引退して数ヵ月、現役生活を今振り返ると「ようがんばったな」と思います。苦しんだ時期のほうが正直長かったですけど、一瞬の感動や達成感など、誰しもが経験できないことを経験できた競技人生でした。ここ数年はケガとの戦い、年齢との戦いでとくに苦しい時間を過ごしましたが、それは支えてくれる多くの仲間がいることに改めて気づかせてくれた時間でもありました。本当にやれることは全部、精一杯やった、あがきにあがいたな、と。だから今はすがすがしい気持ちでいっぱいです。

    今まで「柔道を辞めたい」と思うことはなかったです。ただ、勝負に勝つために必要な積み重ねが今の自分にはできないことを痛感しました。そこまで自分の体を酷使してきたから。関節の消耗や変形は少し休んでどうにかなるものではなく、これからの自分がずっと付き合っていかなければならない現実です。得たものも大きいけど、失ったものもある。

    柔道好きが高じて柔道場まで作った祖父と、天理高校柔道部監督の父と、柔道の金メダリストである伯父と、柔道一家で育った自分。だけど親から柔道を強制されたことは一切なかったです。母が元水泳選手で水泳教室のコーチをしていたこともあって水泳は2歳から、柔道は3歳から、小学校高学年になってからは地元の少年野球、あとは週1で学校のサッカークラブに所属していました。両親はいろいろな競技に触れさせてくれました。 

    柔道に関して父に何か言われたことはほとんどありません。今思えば余計なプレッシャーをかけまいとしてくれたんでしょう。子どもの頃、僕にとって柔道は辛いものではまったくなく、祖父の作った道場で楽しく柔道をしていましたね。

    野村さんの柔道への想いを強くしたお父さんの言葉とは?

    「無理して柔道をしなくてもいい」という父の言葉

    柔道家 野村 忠宏さん
    右が野村さん

    天理中学の柔道部に入部したあたりからでしょうか、周囲の「あの野村一家の次男坊(忠宏さん)はたいしたことないな」という視線を感じだしたのは。自分の意志で柔道部に入り、競技者としての意識が芽生え始めると、おのずと見えてくる自分の弱さが辛かった。中学時代は県でベスト16くらいが最高でしたから。

    そんな自分が、名門柔道部がある天理高校に進むのだから、親としては心配だったと思います。高校進学のときに父からは、「無理して柔道をしなくていいぞ」と言われたんです。兄には「人の3倍努力するつもりでやれ。その覚悟がなければ柔道部には入ってくるな」と厳しい言葉をかけていたのに……。寂しさと悔しさが入り混じった気持ちでした。と同時に、「親父見とけよ」と、父に対する反骨心が芽生えた瞬間でもあったのです。

    決して負けず嫌いではない自分が、柔道だけですね、これだけは負けたくないと思ったのは。ここが自分の居場所だから譲れないと。勉強もそこそこ、運動神経もそこそこ。天理高校もスポーツ推薦ではなく一般入試でしたし。弱かったけど、「柔道というステージで自分は輝きたい」と思っていたんです。柔道を諦めたら、自分には何も残らない。弱いけどがんばっている自分を誇りに思うような感覚もありました。そういう気持ちがあったから、親父の「やめてもいいぞ」はショックだったんですよ。

    文武両道を支えたお母さんのサポートとは?

    母の文武両道への想いを受けて

    柔道家 野村 忠宏さん

    天理高校は全寮制で、全国からトップクラスの選手が集まってきます。「親父見とけよ」という気持ちで入部した柔道部でしたが、1年生のときは「早く2年生になりたい」しか思えなかった……。重量級を集めて日本一を目指していた高校だったので、自分みたいな軽量級はあまり重要視されていませんでした。練習も大きな選手とやらなければならなかったし、生活面では今まで母や祖母がやってくれていた身の回りのことを自分でこなさなきゃいけない。それに加えて寮の掃除や先輩のケアもある。1年生のときは掃除と先輩のマッサージとおつかいと練習で、毎日クタクタでした。

    父とは副部長と生徒という関係で距離があった分、いろいろと世話を焼いてくれたのが母でした。時々寮にきてご飯に連れ出してくれたり。そうそう、公文式に通わせてくれたのも母でしたね。僕も教室の先生が大好きで、今でも年賀状のやりとりをしているほどです。教室には小2から小6まで通っていて、算数・数学を学びました。小6のころには中学レベルの内容を学習していたと思うので、そこそこがんばっていた方じゃないかな。公文では基礎をしっかり学ぶことができ、勉強の習慣がついたと思います。

    徐々に柔道漬けとなっていた中学時代は、週に4~6日、部活の後に塾に通っていました。母親は分かっていたんじゃないでしょうか。高校に入って練習もさらに厳しくなれば、勉強せえへんやろなと。だから多少キツくても、基礎となる中学までの勉強はしっかりやらせなければって。自分にとっては地獄でしたが(苦笑)。でも高校でもそれなりに勉強はしましたから、子どもの頃の習慣って大きいと思います。

    関連リンク
    野村忠宏オフィシャルサイト


    柔道家 野村 忠宏さん  

    後編のインタビューから

    -野村さんの柔道人生を変えたお父さんの一言とは?
    -勝つための努力を学んだ大学時代
    -野村さんの今後の夢、これから大切にしたいこととは?

    後編を読む

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