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Vol.028 2016.01.15

柔道家 野村 忠宏さん

<後編>

積み重ね強い自分を作る
父の言葉が自分の柔道人生を導いてくれた

株式会社コルク 代表取締役社長

野村 忠宏 (のむら ただひろ)

1974年奈良県生まれ。天理大4年時にアトランタ五輪代表となり金メダルを獲得。シドニーで五輪連覇を達成後にアメリカへ留学。2年のブランクを経てアテネ五輪代表権を獲得し、見事三連覇を果たす。その後は度重なる怪我を乗り越えながら現役を続けるも、2015年夏に現役引退を発表。引退会見では、今後の抱負として「若い選手、世界を目指す選手たちを主役に引き上げていきたい。子どもたちに柔道の素晴らしさを伝えていきたい。」と語った。近著に、自叙伝『戦う理由』(学研プラス)がある。ミキハウス所属。

アトランタ、シドニー、そして2年のブランクを経てアテネ……前人未到のオリンピック三連覇を果たした柔道家・野村忠宏さん。「決して強い選手ではなかった」という野村さんがこの偉業を達成した陰には、父・基次さんからかけられた忘れられない言葉があったようです。柔道一家に生まれた幼少期、そして現役時代を振り返っていただきながら、これからの抱負についてもうかがいました。

目次

    待ち望んでいた父からのアドバイス

    柔道家 野村 忠宏さん

    高校に入学してからも、思うような成績は残せない日々が続きました。天理の柔道は正統派。しっかりと真正面から組んで、一本を取る柔道です。自分もそういう柔道を極めたいと思ってやっていましたが、体が小さいとなかなかそれを実践できません。

    努力を続けている以上は結果がほしい、あの頃はとにかく勝ちたかった。組み合ってもつぶされてしまうので、動き回ってかき回す柔道に変化していきました。そのスタイルはやりやすかったし、自分のリズムも作りやすかった。これが自分には向いているのかな……と思い始めた頃、初めて親父から柔道のアドバイスをもらったんです。

    「今だけ勝ちたいんだったらそういう柔道をしたらいい。だけどおまえが息の長い本当のチャンピオンになりたいんだったら、今は勝てなくていいからそんな柔道はするな」。

    そのときは将来のことなど考えていません。それより、あれだけ待ち望んでいた親父の言葉がもらえたことが嬉しくて、この言葉を信じようと。結果的にパワーがある外国人選手と真正面から組んでも一本を取れる技を身につけ、息の長いチャンピオンになれました。この父からの言葉は、自分の柔道人生を変える一言だったのです。

    勝つための努力を学んだ大学時代

    勝つためにどんな努力をするのか

    柔道家 野村 忠宏さん

    大学に入って、僕の柔道人生に大きな影響を与える出会いがありました。「練習の意味」を教えてくれた細川伸二先生(1984年ロサンゼルス五輪金メダリスト)との出会いです。

    柔道の世界で、努力はして当たり前。必要なのは「強くなるための」努力です。天理大学の柔道部師範であった細川先生が教えてくれたのは、まさにそれでした。自分は高3でやっと県大会優勝、初めて全国大会に出場したのですが、結局全国大会では1勝もできずに終わりました。自分では努力しているつもりでしたが、オリンピックチャンピオンである細川先生から見たら、与えられたメニューをこなす努力しかしていなかったのです。

    大学での練習で、「乱取り」という試合形式で6分×13本を行うキツいメニューがありました。自分はそれを「13本乗り切る」ことを逆算しながらやっていたんですね。そういう気持ちを先生は見抜き、「13本全部やろうと思うな。1本目から試合のつもりで全力でやれ。それで途中で動けなくなったら練習を上がってもいい」とおっしゃいました。

    その時の僕は単純に、「やった!13本せんでええんや」と(笑)。それからスタートから全力で練習するようになりました。先生の目の前でそれを見せつけてやろうという気持ちもあった。それで6本目くらいでフラフラになり、もうアカンとなって練習を上がろうとすると先生が言うんです。「お前、そんなもんか」。カチンときました。でも、不思議なことにフラフラだったはずの体がまだ動く。自分で決めた限界のその向こう側にまだ力が残っていたんですよ。

    限界だと思ってからが本当の勝負の時間。それを知ってから、勝負に対する集中力や執念が明らかに変わっていきました。特にオリンピックなどの大舞台では、限界を超えた力が試されます。じつは細川先生の乱取りはもちろん途中で上げさせてもらえるはずもなく、さらに練習後に居残りもさせられていましたね。

    子どもたちへのメッセージと野村さんのこれからの夢とは?

    自分だけの「武器」を見つけよう

    柔道家 野村 忠宏さん
    子どもに指導する野村さん

    練習の質が変わり、体が出来上がってきて、小さい頃から磨き続けてきた背負い投げが形になって……この3つがそろったとき、自分の柔道は飛躍的に向上しました。そして、大学4年でオリンピック代表になり、金メダルを取りました。今考えると、自分は遅咲きのような早咲きのような、変わった選手ですね。

    金メダルを取ってからは、「オリンピックチャンピオン」という肩書きを背負って戦うプレッシャーや、世界中の選手に研究される中で勝つ難しさも味わいました。3つの金メダルを取る過程は決して平坦なものではなかった。ただ、これだけは言えます。結局は、積み重ねしかない。積み重ねが強い自分を作るんです。「勝つための積み重ね」ができなくなったとき、自分は引退を選択しました。

    引退しても自分の中にある柔道がなくなるわけではありません。これから声がかかれば色々なところで柔道を通じた活動をしたいと思っています。もちろん海外での指導なども含めて。世界で勝負するためには、何か自分の武器、強みになるものがないと厳しい。自分には柔道があるのでこれに英語力がプラスされれば言うことないですね。

    でも、柔道という大きな武器があるからこその英語とも言える。英語を話せる人はたくさんいますから、それだけでは武器にはならないと思います。これからの子どもたちには語学以外に「これは絶対に負けない」「これだけは真剣になれる」というものを見つけてほしいですね。

    これから自分がどんな夢を叶えたいか。それは今模索しているところです。でも柔道、そしてスポーツ界には何らかの形で関わっていたいと思っています。金メダリストになるための「自分の作り方」は、経験がある僕だからこそ伝えられることです。

    将来自分がもし人を指導する立場になるとしたら、「言葉」を大事にしたいですね。自分が親父の一言で変われたように、自分も相手に意味ある言葉をかけていきたいと思っています。ただ……「息の長いチャンピオンになれ」と言ってくれた親父は、金メダル後のインタビューで「いや、ここまで息子に才能があるとは正直思わなかった」って言っていましたが(笑)。

    指導者の資質として、一人ひとりの性格を把握して、それぞれに合った言葉かけができることが大切だと思います。そして、自分の一言が相手の人生を変えるかもしれない、そういう責任があることを自覚しながら声をかけないといけない。言葉は「誰が言うか」ということも重要ですから、指導者が普段どういう態度でいるのかも大事ですね。今はいろんな人とコミュニケーションをとっていますが、セカンドキャリアをいい形で築いていきたいと思っています。

    関連リンク
    野村忠宏オフィシャルサイト


    柔道家 野村 忠宏さん 後編  

    前編のインタビューから

    -いま振り返る現役時代
    -野村さんの柔道への想いを強くしたお父さんの言葉とは?
    -文武両道を支えたお母さんの存在

    前編を読む

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