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Vol.004 2013.12.06

フリーアナウンサー 久保純子さん

<前編>

「学び」「夢見る力」を創る
そして、子どもが夢をもつには
大人の在り方が大切

フリーアナウンサー

久保純子 (くぼ じゅんこ)

東京都生まれ。1994年にNHKへ入局。2004年にフリーアナウンサーとなり、テレビ、ラジオ等に
出演する傍ら、著書や絵本の翻訳なども手がける。米国にて、モンテッソーリ教育を学ぶなど、
「子ども」と「言葉」に関わる仕事に情熱を傾ける。二児の母でもある。

NHK勤務中は報道から紅白歌合戦の司会まで、さまざまな番組で活躍した久保純子さん。フリーアナウンサーとして独立後は、ライフワークの「教育」にも積極的に関わり、日本ユネスコ協会連盟の「世界寺子屋運動」を広める“まなびゲーター”も務めています。現在は幼児教育の資格取得に向けて研修中でもある彼女に、そのエネルギッシュな活動の原点をうかがいました。

目次

日本ユネスコ協会連盟の「世界寺子屋運動」まなびゲーターとして

 
フリーアナウンサー 久保純子さん
久保さんよりKUMONへ、書きそんじハガキ回収ポストが贈呈されました(弊社取締役・江崎と)

日本ユネスコ協会連盟では、教育を受けられないために貧困の負の連鎖から抜けられない人々の支援のため「世界寺子屋運動」(以下「寺子屋」と表記)を展開しています。一過性の援助で終わらないよう、寺子屋を建てるというところから地元の人々が関わり、寺子屋の先生もその国の人々が務めます。ただお金を寄付するのではなく、現地の人々が意義や必要性を感じ、永続的に運営していける仕組みを作っているのがとても素敵だなあと思い、私は2008年から広報特使“まなびゲーター”をさせていただいています。

初めは「寺子屋」については分からないことだらけでしたので、「まずは現場に行ってみなければ! 見に行けるものは全部見よう!」という思いで、これまでカンボジアとネパールでの「寺子屋」を視察してきました。私は東南アジアが大好きで、それまで何度もこれらの国を訪れたことがありまして、子どもたちが無邪気に、目をキラキラさせながら遊んでいる印象があったんです。ところがカンボジアでは、奥地の、人里離れたところに行きますと、子どもたちがどんよりした表情で、キラキラした印象がありませんでした。なぜだろうと考えますと、生きること、食べること、お父さんお母さんの手伝いで毎日が精いっぱい。自分の夢をもつという余裕も気持ちもなかったからなんですね。

ところが「寺子屋」を訪れましたら、子どもたちが水を得た魚のように生き生きとして、黒板に書いてあることはすべて学び取ろう!という意欲が、ドーンと伝わってきました。勉強というと、日本では「イヤだな」「ツラいな」が先立つことが多いのかもしれませんが、ここで出会った子どもたちは本当に学ぶことが楽しくて、その時間が何よりの喜びなんだということを感じました。子どもたちに「何が今一番欲しい?」と聞くと、「学校に行くための道」「自転車」「鉛筆」……と、すべて学ぶことに通じるものをあげていたことは忘れられません。

ネパールでは、大人の女性たちも通う「寺子屋」にうかがうことができました。現地の暮らしぶりは、まだ石から火を起こし、お水も井戸から汲んでこなければいけない状況でした。けれど、10代から50代後半までさまざまな年代の、多くは主婦の方々が、一日のうちのほんの数時間だけ、時間を一所懸命作って来ているんです。学ぶことが本当に楽しそうで、どのクラスに行ってもみなさん教わった内容を、先生のあとに続いて大声でくり返していました。

それまでは露店を営んでいても、お釣りが合っているかどうかも分からなかったり、お薬の名前が読めないことで、お子さんに間違って与えてしまう危険性があった女性たち。そんな彼女たちの生活が、読み書きができるようになることで大きく変わっていく。さらには「子どもたちにも教えよう」「もっと大きな店を持とう」と、夢を持ち始めていく過程が素晴らしいと思いました。日本では義務教育があって、学ぶことが当たり前のようにできるのですが、世界では決してそれが当たり前ではないということを痛感しました。

つぎの視察先はまだ決まってないのですが、今は「南三陸の森 希望のポストプロジェクト」の告知に取り組んでいます。具体的には、書きそんじハガキの回収ポスト設置運動で、ポストは被災地・南三陸の間伐材を使って作られています。書きそんじハガキは「寺子屋」の募金となるので、特に年賀状を書く今の時期はみなさんに知っていただきたいんです。ハガキでなくてもコーヒー一杯くらいのお金でも、世界の子どもたちが学ぶ大きな一歩になると、ぜひ知っていただければと思います。

好奇心の塊だった子ども時代

好奇心の塊だった子ども時代

フリーアナウンサー 久保純子さん

私は両親もアナウンサーでしたが、母は結婚後、英語の教師になりました。両親ともに仕事が忙しく、4つ上の兄と、放課後は遊んだり、公文に通ったり、好奇心旺盛だったので、習い事もいろいろやりました。絵画にスキー、習字、ピアノ、ボウリング、ダンス、ガールスカウト、水泳……。あいにくそれらの才能は見いだせませんでしたが(笑)、社会人になって子ども番組に出演したときに、歌ったり踊ったりと、当時の経験が多分に役に立ったような気がします。

公文は小学校1年から4年まで、兄と一緒に通っていました。決まった時間の中で頭と手を使って取り組むことで、集中力がしっかりついた気がします。子どものころのそういう体験や身につくものはとても大切ですね。

小学校4年から中学1年までは、父の仕事の関係でロンドンの郊外に住んでいました。英語が喋れなかったので、最初の1年ぐらいは授業もお友だちも何を言っているのかわかりませんでしたが、お風呂場でよくABCの歌を歌ったり、とにかく英語を口に出すようにして、しだいに日常会話はできるようになりました。

子どものころ、最も影響を受けたのは母だと思います。とにかくエネルギッシュで、常に道を切り開く人です。70歳をゆうに超えている今でも、「やりたいことがいっぱいあってムズムズしてくる」と言っていますが、実際、50歳を過ぎてから水泳やスキーを始めて、太極拳の資格もとりました。「なんでもできるんじゃないか」と思わせてくれる母は、いつも私の目標です。

思い返してみると反抗期もありませんでした。反抗するような時期に海外にいて、助けてもらわないと生きていけなかったのも大きいかもしれません(笑)。 母の姿を見ていて、私も、女性であっても働くことが当たり前に思え、自分は何をしたいのだろう、何か手に職をつけたい、と思うようになりました。きっと母も、私もそうなることを望んでいたと思います。

アメリカ留学での大きな学びと成長とは?

「常に前向きな姿勢」の礎になった米国留学

フリーアナウンサー 久保純子さん

帰国後、もう少ししっかりと英語を勉強したいと思い、高校1年の夏から、アメリカに交換留学をしたのですが、これがなかなか大変でした。五大湖のほとりのウィスコンシン州というところでホームステイをしましたが、まったく価値観の違う、見ず知らずの家庭に1年間お世話になるわけです。

例えば、ホストマザーがベビーシッターをしていたこともあり、私の部屋にまで赤ちゃんがいて、勉強するどころの環境ではなかったり……。貸してもらっている立場なので不満は決して口にできなかったですね。また、日本から送ってもらったおせんべいを食べていると、「魚臭い」と言われてしまったことも……。当時は携帯もパソコンも無かったので、両親に相談もできず、白髪が生えてしまったり髪の毛が抜けたりと体調も崩してしまったほどです。

でも幸い、学校は楽しかったし、アイスクリームやピーナツバターをたらふく食べてストレス解消したり、自分なりの喜びを見出すようになりました。帰国したとき「目が鋭くなった」と言われるほど戦いの日々でしたが、「どんなに大変でも、頑張り抜けば乗り越えられないことはない」と固く信じられたし、それ以降、何があってもあの日々よりもつらいことはないと思えるようになりました。もともとの性格もあるかもしれませんが、今私が常に前向きでいられるのは、このときの経験が大きく影響していると思います。

関連リンク
日本ユネスコ協会連盟 書きそんじハガキで募金

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