「大きな刺激を受けたジュリアード音楽院での学び
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ニューヨーク滞在中、幸運なことにジュリアード音楽院に通うことができました。ジュリアードの学生たちは皆、自分が世界一だと思っていて、プライドがものすごく高い。先生方も、英・独・仏語を話すことができ、あらゆる音楽に通じています。音楽学校ってこういうものなのだなと、ものすごく刺激を受けました。
ここで私のターニングポイントというか、音楽探しがまたスタートします。でもオペラ歌手としてやっていくのには、あまりにも声が細いし、私のような声の人はたくさんいて、競争が激しい。オペラ歌手としてやっていくのは無理だなと、自分の限界を悟ってしまったのです。
では、自分の音楽とは何だろうと、ニューヨーク滞在中、いろいろな方のコンサートに行きました。すると、皆さんアンコールに母国の歌を歌われる。日本の方は、日本の歌はたくさんあるのに、なぜか皆さん『荒城の月』ばかり。そこで気づきました。私はそういう歌を勉強してこなかった……と。それで帰国してから、後輩たちと一緒に日本の歌を勉強して、コンサートをやるようになりました。
そうこうしているうち、母から「良い歌にジャンルは関係ない。妹のリサイタルで一緒に歌ったら?」とゲスト出演を提案されました。はじめは、親孝行のつもりで引き受けました。元の歌いはじめの原点である童謡をメドレーで歌うと、お客さまから「こんなにいい歌があったのに、あの時代の歌はどこ行っちゃったのでしょう」と、懐かしむお声をたくさんいただきました。そこで母が「これよ!」と、レコード作りと二人の活動がスタートしたのです。皆さん、こういう歌を待ち望んでいたのですね。
童謡は子どものための歌なので、作詞家の方々は優しい言葉を選びます。でもたった2行でも大きな想像力を働かせてくれる言葉であり、推敲に推敲を重ねた美しい日本語です。プロデューサーからは、「そういう優しく美しい言葉の歌たちを提供する」という想いで歌わないとダメだと教えられました。
テレビがなくラジオの時代の歌は、聴いて思い出す風景は人それぞれ。ひとつではありません。それが童謡や唱歌の強さです。ですから私たち姉妹が、自分たちが気持ちよく、自分たちの思いだけで歌ってしまうと、皆さんの思ってらっしゃる風景が吹き飛ばされてしまいます。「皆さんの歌」として歌わないといけないということです。