「人に頼りにされる人間になりたい」

私は少ない数のリハビリ医のなかでも、さらに少ない小児を専門とするリハビリ医ですが、そもそもなぜ医者になったかというと、どうも私自身の生い立ちが色濃く影響しているように思います。
じつは、私は妊娠32週の早産で生まれ、出生時の体重は1980グラム。さらに自宅にもどったとたんに体を壊し大量の下血の結果、低酸素状態になり父親から輸血を受けたそうで、まさにハイリスク児でした。そのため発達は人よりゆっくりで、3歳くらいまではよく転び、『刑事コロンボ』にちなんで「圭司コロンダ」なんて言われるほど(笑)。さらに言葉も少なかったと聞いています。
小学校に入っても運動は好きでしたが、うまくはありませんでした。けれど、やったり、見たりするのは好き。とくにテレビでよく見ていたプロレスが大好きで、当時は本気で「プロレスラーになりたい!」と思っていたくらいです。でもやせていて、どう考えてもプロレスラー向きではありません。そんなある日、母から「プロレスがそれほど大好きならリングドクターになったらどう?」と言われました。「なるほど、そういう道もあるかもしれないな…」と思いました。
しかし、どちらかといえば、父の「手に職をつける」という言葉のほうが自分には響いていたのかもしれません。サラリーマンの父は「サラリーマンはたいへん。やっぱり手に職があったほうがいい」としょっちゅう言っていました。3つ歳がはなれた兄は、発達がおそく何をやっても“みそっかす”だった私をいつも見守ってくれて、「圭司は人と激しい競争をするのは向いていない、医者のような確実に手に職がつく仕事をするほうがいい」とよく言ってくれていました。
ハイリスク児として生まれた私は、身体が弱く、喘息もちで小学低学年まではよく学校を休み、病院通いをしていました。お世話になった小児科の先生の微笑んだお顔は、診察室の臭いといっしょにいまでもよく憶えています。「今度は自分が頼りにされる人になろう」という思いが芽生えるようになったのは、ある意味自然なことだったのかもしれません。
とはいえ、とくに勉強ができたわけではありません。公立小学校を卒業して私立の中高一貫の進学校に進んだ私は、優秀な子に囲まれ、成績はいつもビリ。ただ、高校3年のとき「医学部に入る」と目標を決めたら、目標を達成するためにこれだけはどうしても必要という勉強に特化して、1年間それだけに集中しました。人間は、情報が少なければ少ないほど迷いが無い。そして、奇跡的に私大の医学部に現役入学を果たすことができました。
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後編のインタビューから – 橋本先生が考える「リハビリ」と「子育て」の共通点とは?
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