期せずして行ったカナダ赴任がきっかけで、世界から声がかかるように

ミクロ経済の面白さに目覚めた私は、その中でもよりミクロなマネジメント・サイエンスの研究者になりたいと思うようになりました。自由にデータをもとに科学的検証をして、事業戦略の知見を得るという学問です。幸いICUの図書館では、関係する英語の文献が割と自由に手に入りましたので、勝手に相当高度な論文もワクワクしながら読んだ記憶があります。もともとアメリカで勝負したい、修士もPh.D.(博士号)もアメリカでとりたいと思っていたので、この分野で名のあるアメリカの大学に行こうと具体的に考えていました。
そんなとき、中高からの悪友がそういうことならうちの恩師に会えと強く薦めてきました。当時慶応大学の教授で日本のマーケティング論の若手の第一人者だった村田昭治先生です。正直そのときはお名前も知らず、分野も少し違うということで気乗りしなかったのですが、友人の顔を立ててお会いしたところ「修士は日本で取れ。しかも君がやりたい分野であれば、大学院は東大か阪大しかない」と大変説得的なご助言をいただき、そうすることに決めたのです。ただし、時は11月。阪大はすでに願書受付を締め切った後でしたが、東大は安保闘争の影響でこの年だけ募集期間を遅くしていて、しかもそれまで学外からの募集はしていなかったのにたまたま募集していたのです。それで運よく東大の大学院へ進むことになります。
東大では、企業経済の宮下藤太郎先生に師事し、併せて阪大からいらっしゃっていた大澤豊先生にマーケティングを教わりました。宮下さんからは「真理の前に上下なし」を教わり研究指導者としての基本を叩きこまれました。大澤さんからはその後専攻することになったマーケティングの手ほどきを受け、お亡くなりになるまで恩師としてお世話になりました。いまお二人を「さん」とお呼びしたのは、宮下ゼミも大澤ゼミもその当時では考えられない自由な雰囲気でみな「先生」と呼ばずに「さん」と呼んでいたからです。この宮下、大澤両先生こそ村田先生が名指しで師事すべしとお薦めになったお方で、東大で一度にお二人の指導を受けられたなんてまさに幸運としか言いようがありません。
そんな「運が良すぎる」人生を過ごしてきた私が言えるのは、「いい話は予定調和では来ない」ということ。しかも僕の場合、「会いたくない方に会う」「行きたくない会合に出る」という一見ネガティブなことがきっかけで、人生が決まることが多かったように思います。へそ曲がりだったからこそ、気が乗らないことにも取り組めたのかもしれませんが、そんなときでもポジティブに捉えてやってみると、案外おもしろい結果が出るものです。
その後、1989年以降海外のさまざまな大学で教えることになるのですが、これも初めから意図していたことではありません。最初のきっかけは、東大の助教授時代、誰も行きたがらないカナダの大学に、文化交流の目的で3ヵ月間滞在したことでした。
あまり気乗りせずに向かったカナダでしたが、せっかくだからと日本へ帰る途中、知人のいるマサチューセッツ工科大学に寄って行きました。そこで、その当時米国の学会で流行していた分析手法をまな板にあげて「あなた方の方法は間違っている。こうすべきだ」と、まるで道場破りのごとく、日本で開発した分析手法を自信をもって伝えたのです。現地の教授陣からしてみれば、「アジアから妙な奴が来た!」という感じでしょうが、私の熱心さが伝わったのか、帰国後、マーケティング・サイエンスの分野の第一人者のジョン・リトル教授から、「ダラスで学会があるから、そこで発表してみては」とファクスが来たのです。出席すると、たくさんの学者の方と仲良くなり、その後、アメリカを中心にさまざまな大学へ呼ばれるようになりました。
こうしてふり返ると、我ながらまったくロジカルな展開ではないですね。「これ、やらない?」と誘われ、「気が向かないけどやってみよう」と、チャレンジしたことで道が拓けてきたように思います。