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Vol.093 2023.02.17

弁護士・ニューヨーク州弁護士
松本慶さん

<前編>

少しずつでも前進すれば大丈夫
「一日一歩」の精神で歩いていこう

弁護士・ニューヨーク州弁護士

松本 慶 (まつもと けい)

宮崎県日向市で幼少期を過ごす。地元の小学校を卒業後、鹿児島県にあるラ・サール学園で中・高時代を過ごす。東京大学法学部卒業後、2001年に弁護士登録。以来、一貫して渉外・企業法務に関する業務に従事。2006年米国・ノースウェスタン大学ロースクール卒業(LL.M.)。2006年から2007年にかけては、Weil, Gotchal & Manges LL.P.のシリコンバレーオフィスにおいて特許訴訟部門に所属。帰国後、ベーカー&マッケンジー法律事務所(外国法共同事業)へ。主な著書に『クラウドと法』(共著、きんざい)、『ビジネス法務』(共著、中央経済社)など。

弁護士として主に企業法務を扱っている松本慶さん。弁護士生活20年を機に、15年勤務した世界最大級の国際総合法律事務所から独立し、昔の上司で先輩の弁護士とともに新たなチャレンジをされています。
少年時代を自然豊かな宮崎県日向市で過ごした松本さんは、小学校就学前から公文式教室に通い、「地方在住でも学べる機会を提供してもらった」と振り返ります。弁護士となって10年目、KUMONと仕事で関わることになり、公文式の哲学やメソッドに改めて共感されたそうです。弁護士を志したきっかけや公文式学習に対する思いなどについてうかがいました。

目次

弁護士人生の折り返し地点で

弁護士というと、事件の発生に伴う刑事裁判や離婚訴訟などの民事裁判で活躍するといったイメージが強いかもしれません。私はそうした分野とは異なり、これまで「企業法務」という分野を主に手がけてきました。その名の通り、依頼主は個人ではなく企業で、企業間の取引において発生する様々な契約の確認や訴訟のサポートをおこないます。また、企業法務の中でも海外の案件や海外企業とのやり取りが絡む「渉外業務」を中心としてきました。

松本慶さん

私が取り扱っていたのは知的財産権の分野、中でも特許訴訟や技術関連の取引がメインで、その大部分が国際的な案件でした。たとえば、ヨーロッパの会社が日本で起こした特許紛争の代理、製薬会社がグローバルベースで行う共同研究契約やライセンス契約(知的財産権の使用を相手方に許諾する契約のことです)のサポートなどです。KUMONとの関連では、学習療法のアメリカ展開時などにお手伝いをしたことがあります。海外とやりとりすることが多く、業務は半分以上、英語で行ってきました。

こうした業務を、昨年10月までベーカー&マッケンジーという世界最大級の国際総合法律事務所に所属して約15年間行っていました。しかし、弁護士になって20年過ぎたことを機に独立。かつて一緒に仕事をしていた橋口泰典弁護士とともに、橋口・松本法律事務所を立ち上げました。

なぜ独立したかというと、もう少し、いわゆる「マチ弁」のような仕事がやりたかったからです。マチ弁とは、地域密着型で個人を診療する「町医者」のように、地域の個人や中小企業を依頼人として、一般民事訴訟などを取り扱う弁護士です。職業人生を40年としたら、20年は折り返し地点です。この後の人生を考えたとき、私は以前からやりたかった分野に改めて挑戦したいと考えたのでした。一方で、これまで行ってきた企業法務・渉外業務も継続してやっていこうと思っておりまして、いわば「いいとこどり」をしようと考えております。

ベーカー&マッケンジーは世界45地域に展開し、6,000名以上の各国弁護士有資格者を抱える大組織です。日本でも約150名の弁護士や税理士などの専門家が所属し、専門ごとにグループに分かれています。お伝えしたように私の専門は知的財産関連ですが、「今までの専門以外にももう少し業務の幅を広げていきたい」と思ったことが独立を後押ししました。現在はこれまでの経験を活かして企業法務・渉外業務も続けながら、中小企業や個人のご依頼にも対応しています。

宮崎県日向市での公文式学習の思い出

公文式で勉強習慣が身についた

私は宮崎県日向市で育ちました。県庁所在地のある宮崎市から列車で1時間ぐらいかかる牧歌的な地方都市です。野球が好きで小学3年生のころから地域の少年のソフトボールチームに入って活動し、将来の夢は野球選手でした。ピアノや水泳などもしていて、妙に忙しかった気がします。公文を始めたのは小学校入学前の5歳くらいの時だったと記憶しています。徒歩4~5分の近所に教室ができて、親は他の習い事と同じような感覚で通わせたのだと思います。始めた当時は算数しかなかったのですが、途中で国語を始め、2教科とも小5まで続けました。

松本慶さん

小さい頃に始めたこともあり、プリントを毎日学習することが日課になりました。手も足も出ないレベルのことではなく、少し頑張ればできるレベルだったので、やりたくないとか面倒だとか感じたことはなかったです。時間的にも30分、長くても1時間程度なので負担に感じなかったのでしょう。これが2時間やれといわれていたら続かなかったと思いますが、親から強制されず、自発的にやっている感じがしていたのも、続けられた理由だと思います。

小3ぐらいで小6の教材や進学校の入試問題などができると、「こんな問題もできたんだ!」とうれしくなり、子ども心に達成感がありました。そうして続けることで計算力や読解力など学力がついたのはもちろんですが、むしろ「コツコツと努力する習慣」が身についたことが、今でも役立っていると感じます。訴訟などで難しい問題点に向き合うときも、粘り強く取り組むことができるのはそのときの習慣からかもしれません。

野球少年が中学受験でラ・サール学園へ

考えもしなかった中学受験に挑戦

野球少年だった私が弁護士という仕事に関心をもったのは、小6のとき、進学塾の社会科の先生の話がきっかけでした。先生は専門的な資格を持つことを勧め、そこで弁護士や公認会計士という仕事があることを知りました。私は特に親戚に弁護士や検事など法曹界に縁がある人が身近にいたわけではなかったのですが、その塾の先生の話が妙に頭に残ったのです。資格を持てば独立して自由にできる、という気持もありました。結局、長く大きな組織で働くことになったわけですが。

松本慶さん

そもそも私が進学塾に行くことになったのも、中高一貫校に進学したのも、通っていた公文式教室の先生の助言があったからです。私が育った地域は宮崎県の中でも都市部から離れていたこともあり、中学受験をする人は学年に2~3人いれば多い方。進学塾に行くなら、列車で1時間かけて宮崎市内まで行かなければなりませんでした。ただ、当時は両親も私自身も、中学受験をするという選択肢は頭にありませんでした。

その先生は自主性を重んじて可能性を伸ばしてくれました。そして、小学校5年生のころ、中学受験を見据えて宮崎市内の進学塾に行ってみないかと勧めてくれたのです。今思うとこの一言がいろいろと現在につながっています。

早速、紹介された進学塾の合宿に小学校5年生のときに参加してみたところ、「ついていけるかもしれない」と手ごたえを感じました。そして、そのまま入った塾で私の職業人生を方向付ける社会科の先生と出会ったわけです。

塾は自宅から遠かったので、週末は宮崎市内のビジネスホテルに泊まって塾で勉強し、平日は自宅で勉強するという二重生活でした。他のことはあまりできなくなってしまいましたが、元々勉強はきらいではなく、また、塾では切磋琢磨する友達がいたり、先生の話が面白かったり、日向市とは違う少し都会の環境があったり(初めてケンタッキーフライドチキンを食べました(笑))と刺激があり、寂しい、つらいという気持はあまりなかったですね。親もそうしたわが子の生活に、それほど抵抗感はなかったようです。

そうして鹿児島県のラ・サール学園に進学。今度は寮生活が始まりました。中等部では1日3時間自習室で机に向うことが課せられましたが、それがつらいと感じなかったのも、公文でコツコツ学ぶことが習慣になっていたからだと思います。

後編を読む

関連リンク学習療法-映画『僕がジョンと呼ばれるまで』|KUMON now!学習療法センター


松本慶さん  

後編のインタビューから

-東大進学から司法試験合格、日本の法律事務所を経て渡米
-弁護士としてのKUMONとの関わり
-困難な出来事に遭遇したときの考え方とは

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