コンプレックスを持ち続けた思春期
自然体で堂々としたモデルの姿に力をもらう
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私は思春期の頃、コンプレックスのかたまりでした。肌が浅黒く、眉毛も濃い。なんでこんな容姿なのだろうと悩みました。そうしたネガティブな思いが変わったのが、モデルの長谷川潤さんを見てからです。私と同じように褐色の肌ですが、自然体でものすごく堂々としている。「この人みたいになりたい」と強く惹かれ、夢は刑事からモデルに変更。ダンスレッスンも受けるようになりました。
一方で勉強も頑張りました。元々公文で鍛えたお陰で数学は得意。中学に入ると公文式で英語も学び、希望の高校に入学しました。成績優秀者に選ばれて学費が免除され、入学後もクラスでトップに。最初に1番をとったので、これを1年間はキープしようと、勉強とダンスの両立を頑張りました。
加えて公文の教室でアルバイトもしていたので、高校時代は忙しかったですね。教室では採点などを手伝い、自分だったらどうされたらやる気がアップするか、自分の子ども時代を思い出しながら働きました。私がお世話になった分、今度は子どもたちに還元したいと思いながら働くのは楽しかったです。そこで初めて「働いてお金をいただく」経験をして、働く意味も学びました。
通学していた高校は校則が厳しく、原則アルバイトは禁止されていましたが、学校の先生に交渉し、「公文なら」ということで了承を得ました。芸能活動もその高校では前例がなかったのですが、レッスンに通っていること、オーディションのために休むこともあるかもしれないことを真剣に伝えたところ、熱意が通じて許可していただきました。自分の希望を通すには、本業の勉強をしっかりやっておくことが大事です。ちゃんと勉強で成果を出した上でお願いしたので、受け入れてくださったのだと思います。東京ならともかく地方では、芸能活動など目立ったことをすると、周囲からはあまりよく思われないことがあります。でも友人たちはとても協力的で、高3のときには地域のコンテスト「いちご姫」に推薦してくれました。そこで人から見られる楽しさ、自分を知ってもらうことの嬉しさを実感し、「もっとみんなに知ってもらいたい」という想いが高まりました。
とはいえ、当時は「ふつうに大学に行って、地元で働いて結婚すること」が親も望んでいることだし、それが長女である私の幸せなのだろう、と思っていました。なので、好きだった英語を学ぶため東京の短大に進学した後は、Uターンして福岡の老舗和菓子屋さんに就職することにしました。
優柔不断に悩み続けた社会人生活
妹の言葉に背中を押され芸能活動の道へ
ところが就職が内定した後、残りの学生時代に「東京にいた痕跡を残したい」と、エキストラ事務所に登録してエキストラ出演をしたことで、芸能活動への夢が再度膨らんでいきました。エキストラではなく、目立った役なら、更に自分の幸福度が高まるのでは、と思うようになったのです。
そんな思いを抱えたまま地元で働いていた頃、福岡で妹と二人暮らしをしていた期間がありました。当時、妹も韓国で練習生になる予定が、その通りにならずに、もどかしさを抱えていました。私は会社員ではあるけれど、芸能活動に未練がある状態。互いに思いをはき出す中で、妹に私の心境を伝えたら「やりたいなら、やればいいじゃん!」と一言。その言葉でハッとしました。そうだ、人生は一度きり。やりたいことがあるならやろう。そして芸能活動をするなら東京でやろう。そう気持ちが固まりました。
本格的に上京する前に、下見で一度東京に行き、知人にも相談して「自分の道はこれだ」と確信。帰りの新幹線から母に電話して「やっぱり上京して芸能活動をしたい」と泣きながら伝えました。すると、それまでは「いろいろやるのはいいけど……」と乗り気ではなかった母が、私の覚悟が決まったことを察知してくれたのか、「好きな人生を送りなさい」と言ってくれました。
上京して一人暮らしを始めると、それまで芸能活動のキラキラした部分しか見えていませんでしたが、待っていたのはバイトとレッスンとオーディションの毎日。一体私は何しに東京に来たのだろうと、悩む生活が2~3年続きました。それでも地道に毎日SNS等で発信を続けることで、少しずつファンの方も増えていきました。
私のことが知られるようになったのは、妹のデビューが決まった頃です。妹のデビューが嬉しくて、それをファンの方に知らせたら「売名行為だ」とネット上で炎上してしまって……。当時は本当につらく、ネットの怖さを思い知りました。でも時間が経った今、「山口姉妹」として認知されるようにもなり、それはそれでよかったのかも、と前向きに考えられるようになりました。
つらい生活が続いてもくじけなかったのは、「あの場所に自分の居場所がある」という「根拠のない自信」があったから。好奇心旺盛でいろいろなことに挑戦したいと、ポジティブに捉えられる性格がよかったのかもしれません。「私を通して一人でも多くの方に元気と勇気を与えられる存在でありたい」「私が長谷川潤さんに勇気づけられたように、私も誰かの力になりたい」との思いも、活動の原動力になっています。今、実際私のSNS発信を見た方から「楽しかった」などのコメントをいただくと嬉しいですし、やりがいを感じています。
フリーでも正々堂々と活動できるように
自ら道を切り開いていきたい
山口さんの座右の銘 「我が道を行く」 |
今、私は事務所に所属せずフリーで活動しています。フリーになるにあたり、周囲からは「まだ知名度がないし、独立してもやっていけないよ」などと言われました。でも、自分のように「モデルはやりたいけど、自分がやりたくないことまでやらなくてはならない」と悩んでいる人がいるのではないかと思うので、そういう人が正々堂々と活動できるように、私が率先して示していきたいと考えています。
私のように芸能活動を目指したいというお子さんには「周囲の目を気にしない」ということをお伝えしたいです。私は周囲の目をずっと気にしていて、コンプレックスもあったため、モデルとしては遅咲きでした。やり直せるならもっと小さい頃から「自分は自分」と、堂々としていたいと思います。今は自ら発信できる時代なので、SNSなどのツールをうまく利用して自分の良さをアピールできます。事務所に入ることを目指さなくても、自分をブランド化して発信していくのも楽しいし、学ぶことも多いのではないでしょうか。
保護者の方には、子どもとのコミュニケーションをとることを大事にして欲しいと思います。話を聞くだけでもいいですし、私の経験上、1日1ハグだけでも、お子さんは嬉しいと思います。私も親になったら、ハグは必ずしたいですし、CMに出演した際に使用した「くもんカード」も、ぜひやってあげたい!と思っています。
今、思い描いている夢はいくつかあります。ひとつはどこかの節目で「上京編」の写真集をつくること。ファースト写真集はちょうど活動10年目のときにつくったので、次の節目には東京を舞台に撮影したいですね。
もうひとつは、福岡県八女市をもっと知ってもらうこと。例えばファンの方とのバスツアーを企画して地域活性につなげることができれば、と考えています。そして何より私自身の認知度をアップして、影響力を高めていきたいと思っています。先にお伝えしたように、フリーでもきちんとやっていけるということを、私自身が実践して伝えていきたいです。そしていずれは結婚・出産も経験したいので、結婚・出産後も芸能活動が続けられることを、堂々と示していけたら嬉しいです。
関連リンク 山口厚子(@atu_yaman)・Instagram photos and videos山口厚子(@alohaarabian58)・Twitter福岡産のあっちゃん atsuko-YouTubeくもんのカード 一枚のカードから広がる、ことばの世界。KUMONSHUPPAN-YouTube
前編のインタビューから -現在の芸能活動について |