「この人の弟子になりたい!」
食えないのを覚悟して4.5畳半住まいからスタート
大学院2年目のとき、師匠となる3代目旭堂南陵の講談を聞いたことが転機となりました。当時すでに80歳過ぎ。ゆっくり舞台に上がり、話し方もゆっくりそろそろ。ところが話が進むにつれて、お客さんの顔がぐっと舞台に近づいていくんです。まるで鵜にヒモをつけて繰って魚を獲らせる鵜飼いのように、お客さんが糸でクイクイ繰られている。それほど観客を魅了する芸を私も身につけたい、この人の弟子になりたいと、強く思いました。
もう一つ理由があります。そんな魅力的な芸事なのに、当時、講談師は大阪に10人足らず。講談への認知は低く、そんな中でも師匠は、お父さんである2代目旭堂南陵とふたりで続け、2代目が亡くなってからは、たった一人で、まさに孤軍奮闘。野生動物だったら絶滅していますよ。そういう苦労があった中で、弟子が増えてここまでになったわけです。
当時私は文章で講談を広めようと考えていましたが、それ以前に講談師の「コマがない」ことを知り、「自分は不向きかもしれないが、それならコマのひとつになって、師匠の芸を次世代へつないでいこう」と方向転換しました。弟子入りを頼んだものの、高齢ですし、断られるかと思ったら、あっさり「うん」と承諾していただきました(笑)。
一方で、講談を知らない両親には弟子入りを理解してもらえませんでした。「私の人生なのだから」と説得しましたが、「勝手にせい」と、ほとんど勘当状態です。父は「芸の世界は厳しいから、どうせ途中で逃げ出すのでは」と思っていたようです。
1999年に師匠に入門した私は、15番目の入門希望者でした。過去に14人が入門したのですが、7人は残り7人は辞めていき、私はどちらになるかと兄弟子たちに注視されていたようです。
辞める理由はいろいろあるのですが、その一つが「食えないから」。若くて独身だった私は、「食えないのは当たり前」と覚悟して飛び込みました。4畳半一部屋のアパートに移り住み、朝6時から昼までは寿司屋で働き、昼からは師匠の身の回りのお世話をしたり、稽古や講談会の手伝い。お花やお茶などの稽古とは違い、師匠は無料でメシのたねを教えてくださるのが講談の世界です。独特の徒弟制度をありがたく思いながら稽古に励みました。
いつの間にか5年、10年経ち、賞もいただくようになり、父は新しい着物を買ってくれたり、地元で講談の会をつくってくれたりと、応援してくれるようになりました。親というのはいくつになってもありがたいものですね。
「やめたらあかん。やめてしまうとそこで終わってしまう」
なぜ私が続けられたかというと、やはり講談のおもしろさ、そして師匠の芸を後世に伝えたいという想いが強かったからでしょうね。公文を続け、成績が上がったりした経験があったので、「何でも続ければ成長できる」ことがわかっていたのだと思います。
周りの方にも恵まれました。舞台では一人ですが、師匠や兄弟子、仲間、お客さまがあってこその仕事で、一人ではできません。こうした支えがあったのも続けられた一因です。でも20年続けた今でも、100点満点の芸はできていません。30年40年……50年くらいやったら多分、「うまくなったなあ」と言われ、それで寿命がくるのでしょうね。
師匠から学んだ伝統的な講談のほか、新作講談もつくります。旅行時のことを「○○旅行記」としてつくったり、結婚式用に夫婦の馴れ初めを講談にして披露したりすることもあります。講談がよく知られていた時代は、「社長の一代記」を講談師に語ってもらうことが、社長の楽しみだったりしました。社員へのメッセージが、胸にすっと入ってくるんですよね。
新作講談をつくるときは、題材となる人の話をよく聞いて、現場に足を運ぶに尽きます。周辺知識も必要ですから、本を読んだり映画をみたり、いろいろなことを見聞き体験することも大事。そう考えると、講談師の仕事は、24時間ずっと、といえるかもしれません。
講談師に大切なことは、「声・記憶・胆力」といわれていますが、師匠曰く、一番大切なのは「健康」。師匠は80代でも舞台に立ち続けられました。健康であればこそです。師匠や兄弟子からよく言われていたのは「やめたらあかん。やめなかったらうまくなる。やめてしまうとそこで終わってしまう。続けるのが大事で、間違っても、繰り返していると、間違いがなくなっていく」ということ。続けたおかげでいまは後輩もできて、未来へつなぐことに少しは貢献できているかなと思っています。
昨年秋からは講談教室を始めました。月1回の開催で、12月には成果発表会を行っています。参加者は社会人が中心です。私が5分程度の演目を演じて、それを手本に覚えてもらい、1ヵ月後の教室で発表します。
毎回テーマを決めて「3分講談」をつくる宿題も出しています。今の時期なら、月がきれいなのでテーマは「月」。話すことに慣れてほしいことと、会社の昼休みに「月でこんな話があるよ」なんて日常にも使ってほしくて。学校でも仕事でも、相手の興味をひくように話すことができれば楽しいですよね。
以前は大阪で場所を借りて開催していましたが、コロナ禍のいまはオンラインで実施しています。講談は生の発声があってこそなので、オンラインだともどかしいこともありますが、東京から受講する人が増えるなど、講談の裾野を広げるチャンスだと思っています。
失敗したり、間違ったりしてもいい
人を許せる「やさしき人」になろう
講談というのは、じつは世界各地にあるんです。日本のようにユーモアを含めて語っているかはわかりませんが、中国で聞いたとき、周囲の人は笑っていたので、そうした要素もいれているのでしょうね。言葉がわからなくても、リズムがいいのも講談の楽しさです。かつては横になって聞いている人もいたとか。昔は、お客さんを起こさず寝かさず語っていくのが一番いいとされていたようです。
中国では、講談は「評弾(ひょうだん)」といいます。我々が使う2倍ほど大きな扇子を用いて立って語ります。中東のシリアでは、イスに座って張り扇の代わりにステッキを持ちます。インドでは絵巻物を見せながら物語ります。世界的にも、伝統的な語り部は減少しているようです。中国や韓国で公演したり、オランダのストーリーテラーを訪ねたこともあります。講談を次世代に伝えることに加え、そうした各国の語り部と交流を深めていくのも私の夢です。
私がこうして活動できているのも、両親が子ども時代にいろんな経験をさせてくれ、それが血肉となっているから。ですから、わが子を含め、子どもたちにはいろんな経験をさせてあげたいですね。とはいえ、結局は親が知っている範囲のことしか経験させてあげられません。親が視野を広く持ち、いろんな風景を見せてあげるといいと思います。
親の立場からすれば、わが子が間違ったり、失敗したり、人に迷惑かけたりすることは、避けたいでしょうが、私はあまり気にしません。私は公文式で、「間違ってもいいんだ」ということを学びました。教室で最初から100点を目指さなくてもいいように、人生でも、失敗したり、間違ったり、人に迷惑をかけてしまったりしてもいい。人はいろんな人に助けられて大きくなっていくのですから。
だから子どもたちにも「迷惑をかけてもいいんだよ」と伝えたい。そして自分が迷惑をかけられたと感じたときには、相手をやさしく、大きく包んであげる。人が失敗しても許してあげる。そんな人に育ってほしいですね。
私は生徒さんから「どうしたら講談がうまくなりますか?」とよく聞かれます。私は「やさしき人になりなさい」と答えます。やさしき人になると、いい講談ができる気がします。「芸は人なり」ともいいます。間違ってもいい。失敗してもいい。ただ、やさしき人になってほしい。そうして人を魅了できる講談師が増え、講談がもっと広まることを願っています。
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