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Vol.073 2020.11.06

講談師
旭堂南湖さん

<前編>

最初から100点満点を目指さなくていい
間違ってもいいから繰り返し、
続けていけば、芸も学びも磨かれる

講談師

旭堂 南湖 (きょくどう なんこ)

兵庫県生まれ。幼少の折に滋賀県甲賀郡甲南町(現・甲賀市)に移り住む。地元の小中高を卒業後、大阪芸術大学芸術計画学科を経て、1999年大阪芸術大学大学院修士課程(芸術文化研究科)修了。在学中に3代目旭堂南陵の講談を聞き、その芸に魅かれ、卒業後、弟子入り。平成14年度「大阪舞台芸術新人賞」受賞。平成22年度「文化庁芸術祭新人賞」受賞。主演作品『映画 講談・難波戦記-真田幸村 紅蓮の猛将-』が全国ロードショー。CDに「上方講談シリーズ4 旭堂南湖」「講談 古典怪異譚」「講談 現代怪異譚」「こども講談」(12月発売予定)がある。

日本が誇る伝統話芸「講談」。旭堂南湖さんは、全国の講談会でご活躍するほか、講談教室や小中学校でのワークショップなど、さまざまな場で講談の魅力を広めています。南湖さんは大学院生のとき、3代目旭堂南陵さんの講談を聞いて弟子入りを決意。様々な理由で講談師を辞めていく人が多い中、支えとなったのは、公文式学習での「続けていれば成長できる」という実体験だったそうです。「師匠の芸を次世代につなぎたい」と語る南湖さんに、講談師という仕事の醍醐味や続けることの大切さなどについて、師匠の思い出とともに語っていただきました。

目次

戦国時代に江戸時代、そして自分の誕生も「歴史」
その史実をわかりやすくおもしろく物語る伝統芸能

旭堂南湖さん

みなさん、「講談」ってご存じですか? 落語に比べて知名度は低いかもしれませんね。「着物を着て一人でおしゃべりする」までは落語と同じです。違うのは、講談は「釈台(しゃくだい)」と呼ばれる机の前に座り、その釈台を「張り扇」で叩いて調子を取りながらしゃべること。

内容も違います。落語は笑い話で、つくり話が中心ですが、講談は、「いつ、どこで、誰が、何をしたか」歴史の物語。難しそうに感じる歴史の事実を、お客さまに喜んでいただくよう、ユーモアや嘘を織り交ぜながら、講談独特の語り口で語ります。昭和初期には講談を毎日やっている専門の寄席小屋「講釈場」がありました。ところが現在は講談専門の寄席小屋は日本には一軒もありません。お寺や古民家などを借りて公演しています。

文部科学省の「文化芸術による子供育成総合事業」の一環として、全国各地の小中学校に派遣されてワークショップをすることも大事な仕事です。この事業は、演劇や舞踊、音楽などさまざまな分野から学校側が選択できるのですが、担当の先生が講談を知らないとなかなかお声がかからない。それが残念なところです。もっと広まったらいいなと思います。

そして、ワークショップは1回だと鑑賞だけで終わってしまうので、私の場合は3回やります。1回目は講談鑑賞。2回目は自分たちで体験する。張り扇をつくったり、お話をつくったりします。お話づくりは難しそうと思うかもしれませんが、講談は「歴史の物語」。江戸時代や明治時代も歴史。自分が生まれたことも歴史です。両親がどこで出会ったかなど家族を取材したり、おじいちゃんの子ども時代を聞いて「おじいちゃん一代記」をつくったり。3回目は発表会で、そこにご家族もお呼びします。とっても盛り上がりますよ。

張り扇は、リズムをとるだけでなく、その叩いた音よりも大きな声を出すためのものなので、子どもたちの発声を促したり、のどを鍛えたりすることにもつながります。講談では、源平合戦の「那須与一 扇の的」など、教科書に載っている話も語り継がれています。ですから中学生くらいになれば、歴史の勉強が楽しくなりますよ。

12月には小中学生を対象としたCD「こども講談」が発売されます。付録で講談台本や張り扇の作り方も書いてありますので、聞くだけではなく、講談を覚えて体験することもできますよ。

忍者修行に富士登山…さまざまな体験をした子ども時代

忍者修行に野球や卓球、キャンプ、山登り、公文式……いろんな体験をさせてくれた両親に感謝

旭堂南湖さん

私は生まれは兵庫県ですが、1歳のときに忍者の里・甲賀に移り、高校卒業までそこで育ちました。甲賀には江戸時代から残る本物の忍者屋敷があります。見かけは民家ですが、中はいろんな仕掛けが施されていて、かくれんぼには最高です。身近にそんな場所があったので、小さい頃は忍者になりたいと思っていました。

忍者が木を植えてそれを毎日飛び越えて跳躍力を身につけるというのが本に載っていたので、ドングリを植えたらどんどん大きくなって、やがてはとても飛べなくなったり、長いはち巻きを頭に巻いて、はち巻きの後ろが地面につかないように走ったり、いろんな修行をしましたが、やはり忍者になるのは難しいとあきらめました(笑)。

ほかにも幼少期は野球からメンコ、ビー玉、ファミコンまで、いろんな遊びをしていました。兄の影響で柔道を習ったり、自宅のガレージに卓球台があったので家族4人で卓球をしたり。卓球は中学高校の部活でも続けて、高校時代は近畿大会まで進みました。

サラリーマンだった父は、朝から晩までよく働いていましたが、夏休みなどは必ず、大勢の仲間といっしょにキャンプに連れて行ってくれ、山登りもよくしました。5歳のときには富士山も登頂。といっても私は8合目でギブアップして寝てしまい、気づいたら頂上でした。父がおぶって登ってくれたんですね。やがて自分の足で頂上まで登りたいと、43歳で実現しました。頂上からの景色は、5歳のときに見た風景と同じでした。小さいときの得がたい体験というのは、ずっと自分の中に残るものですね。

中学生になるとテレビのお笑い番組に夢中になり、芸能への憧れが芽生えました。中島らもさんの本にもハマり、暗記するくらい熟読。漫画で読む歴史シリーズや江戸川乱歩などミステリーもよく読みましたね。

母もいろんな体験をさせてくれました。そのひとつが公文式教室です。兄が通っていたので私も小1から算数を習うように。高学年になってからは英語もやりました。

公文式学習の思い出

公文式で計算が得意に
学年でただ一人、満点をもらったことも

旭堂南湖さん

公文式がいいのは、自分のペースでできること。小1で2年生の内容を、2年生で3年生の内容を、というように、どんどん進んで、○をもらえることがうれしかった。そしてそれが自信になりましたね。

中学校は40人学級が9クラスもある大規模校でした。ある日の数学テストで、先生のミスでまだ習っていない内容が出題され、「100点満点ではなく75点満点」と配慮されたのですが、そこでたった一人100点をとったのが私でした。先々まで自分のペースでやる、何度も何度も繰り返しやる、という習慣がついていたのがよかったのでしょうね。そうして自信がつくから、勉強が楽しくなりました。

いま、舞台に立つのは自分一人、稽古も一人、台本を覚えるのも一人です。集中力がないと続きません。それができるのは、公文式の教室で、一人で黙々と集中して問題を解いていた経験があったからだと思います。

公文のおかげで勉強が好きになったので成績はよく、高校は進学校へ進みました。大学は、大好きだった中島らもさんの母校、大阪芸術大学へ。当時もお笑いや落語などへの憧れは強く、「演者になりたい」という気持もありましたが、じつは私は赤面症で、人前でひどく緊張してうまくしゃべれない。だから向いていないと思い込み、「芸人になる」と公言することもできませんでした。赤面症や緊張する体質は、講談師になって場数を踏むことで、いつの間にかなくなりましたが。

当時は裏方ならできるのではと考え、大学では芸術計画学科へ。この学科は、アートやスポーツ、音楽などのイベント企画・制作・運営を学びます。寄席をプロデュースしたり文章で紹介したりして、好きな世界を後ろから支えることができるのではと考えました。

入学すると落語研究会に入り、いろいろな寄席にも通いました。もともとサラリーマンになることは考えておらず、「演者になるか」「裏方になるか」まだ悩んでいたので大学院へ。そして大学院2年目のとき、運命の出会いが訪れます。

後編を読む

関連リンク

旭堂南湖公式サイト旭堂南湖Twitter


旭堂南湖さん   

後編のインタビューから

-「この人の弟子になりたい」と飛び込んだ講談の世界
-公文式学習にも通じる師匠の教えとは?
-子どもたち、保護者へのメッセージ

後編を読む

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