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Vol.072 2020.09.18

読売巨人軍 球団職員
矢貫俊之さん

<後編>

行き詰まっても逃げないで
あきらめずにぶつかって
答えは自分で見つけよう

読売巨人軍 球団職員

矢貫 俊之 (やぬき としゆき)

福島県生まれ。5歳から小学校3年生までフィリピン・マニラで過ごす。帰国後は、中学まで福島県で暮らし、野球部で投手として活躍。高校は、野球の名門、仙台育英高校に進学。常磐大学を経て、三菱ふそう川崎に入社。2008年に都市対抗野球大会に出場し、同年ドラフト3位で北海道日本ハムファイターズに入団。2015年途中に読売ジャイアンツにトレード移籍。2016年末に現役引退し、球団職員となる。営業企画部を経て、2019年から広報部、2020年8月からは編成本部にて活躍中。

元プロ野球選手としての経験を活かしながら、現在は読売巨人軍の球団職員として活躍される矢貫俊之さん。この8月からは選手育成も行う編成本部へ異動となり、選手目線での仕事ぶりにますます期待がかかります。矢貫さんは野球を始めたのと同時期に公文式教室にも通い始め、「野球と公文に育てられた少年時代だった」と懐かしそうに語ります。好きで続けてきた野球ですが、「うまくいかないことも多かった」とも。そんなときはどう乗り越えたのでしょうか。現役選手当時も振り返っていただきつつ、困難に打ち勝つ秘けつ、目標に近づくための心がけなどについて、力強いメッセージをいただきました。

目次

「自分で気づいてスイッチを入れること」が、夢に近づく第一歩

矢貫俊之さん

地元の中学はとくに野球の強豪校ではなく、「おれがなんとかするぞ」と意気込んだものの、地区大会2回戦負けで終わっていました。ただ、中学時代の私の活躍を知る方々のご縁もあり、高校は野球の名門、仙台育英高校へ進学しました。当然、レベルが高いので、入部時には「レギュラーになれないかもしれない」と言われました。そう言われても、「自分が頑張ればいい」という気持ちで取り組みましたが、結局ずっと補欠……。当時は「プロになりたい」と思う反面、野球をやめるきっかけも欲しかったというのが正直な気持です。

ただ、3年間補欠で試合に出ていなかったので、「やり切って終わりたい」と考え、試合に出られるチャンスが高そうということもあって、常磐大学に進学しました。大学で野球はひと区切り……と思ったのに、大学の野球部にはのちにプロ野球選手として活躍される小野寺力さん、久保田智之さんという素晴らしい投手が在籍されていて刺激を受け、「やっぱりプロに行きたい!」と夢が再燃。ただ大学ではかなわずに、社会人野球の強豪、三菱ふそう川崎に入社して、硬式野球部で野球を続けました。

ところが社会人野球2年目に、「来年は休部になる」と告げられて……。そのとき監督に「プロに行きます」と宣言しました。それまでは「プロに行けたらいいな」という程度で、自分で断言することはありませんでしたが、休部になると聞いた瞬間に、「プロになる!」という気持ちが固まったんですね。中2のとき、親に「野球をやりたいので公文をやめる」と宣言したのと同じような感覚です。そう宣言してから腹をくくり、行動が変わりました。

夢に近づくには、こうして自分で気づいてスイッチが入り、一歩踏み出せることが一番よいと思います。もちろん、周囲の人が「大丈夫、進んでみなよ」と、背中を押してあげることも大事だと思います。念願叶い、2008年のプロ野球ドラフト会議で、北海道日本ハムファイターズに投手としてドラフト3位で指名され、6シーズン在籍した後、トレードで読売ジャイアンツへ移りました。

矢貫さんが日ごろから心がけていることとは?

どこでもいつでも緊張感をもって模範になるよう心がける

矢貫俊之さん

残念ながらジャイアンツでは結果を出せず、戦力外通告を受け、どうしようかと考えていたときに、球団から声がかかりました。打診された営業企画部は、グラウンドには出向かずに、オフィスでやる仕事が中心です。現場との架け橋的なことも行っていて、組織の中での自分の位置づけを想像したとき、わくわくしたのでありがたく引き受けました。

試合時の音楽やオーロラビジョンを決める興業運営に関わる仕事では、「オーロラビジョンに映った絵が真っ白だと、目がチカッとして選手がやりにくい」など、選手目線での意見を進言。選手経験があるからこそ言えることで、やりがいを感じていました。

じつは、引退を決めた直後は、野球とは離れたことをやろうと考えていたんです。たとえば税理士などの専門職です。スポーツ選手は引退すると、セカンドキャリアが問題になります。でも、プロになること自体がとても難しく、それができた人というのは、そのほかのことにおいても、絶対に何かを成し遂げられると私は信じています。それなのに、あまりよいイメージがない。それを払拭し、どこででも活躍できることを示したかったのです。

いまでも、「自分がこれをやめたら次は何をしよう」という思いは常に頭の片隅にありますし、「自分が必要とされなくなったときには身を引こう」という覚悟と緊張感を持ち続けています。だからこそ、常に成長を意識して仕事をしています。

こうして道のりを振り返ると、私はつくづく縁に恵まれていたと思います。その時々でキーパーソンに出会い、支えられてきたからです。なぜ多くの人が支えてくれるかって?「さわやか」だからでしょう(笑)。子どもの頃からそうだったかはわかりませんが、とっつきにくいと思われるよりは、とっつきやすいと思われるように意識してきました。そういえば、学級委員長とか何かの長みたいな役回りも結構やっていて、友だちも多かったですね。

私は、「常に自分は見られている」と考えています。いつでもどこでも緊張感をもって臨むのは当たり前ですが、心がけているのは「模範になる」こと。読売巨人軍というブランドを背負っていますし、私が携わっている仕事の価値を高めていきたいからです。「こうしてきたから、こういう仕事をしているんだな」「自分もああなりたいな」と、子どもたちに思ってもらえたらうれしいですね。

子どもたちに伝えたいこと

ジャイアンツを世界に通用するチームに!
自分なりのやり方と答えを見つけていきたい

矢貫俊之さん

じつは、8月1日から編成本部へ異動となります。今後、私の仕事は選手の育成が中心になりますが、自分自身も若い選手たちと一緒に成長していきたいと思っています。

野球チームに携わっているからには、やはり目標は「チームを日本一にする」「もっと素晴らしい、世界に通用するチームにする」こと。自分がそのピースになって夢をかなえられるよう頑張りたいですね。

ただ、かつて自分が抱いていた「プロになる」という夢は、自分自身のことですが、「日本一になる」ことはチームで目指していくものなので、難しさもあります。そこを、公文で学んだように、自分で答えを見つけていきたい。ただこの目標は、答えだけでなく、やり方もわかりません。それも自分なりのプロセスを踏んでいきたいと思います。

子どもたちに伝えたいのは、「あきらめないで」ということに尽きます。公文も野球も私にとって楽しかったのですが、どこかで楽しくなくなったり、行き詰まったり、やめたいと思ったりするときが出てきます。でも、そのときに逃げてもらいたくない。あきらめるのは簡単ですが、周囲に助けを求めたりしながら、ひとつずつ問題をクリアしていってほしい。どんどんぶつかっていってもらいたいですね。

あきらめるのは簡単なので、保護者の方には、逆に「もっとやってみなよ」とモチベーションを上げるような働きかけをしてほしいと思います。私には娘が二人いますが、「やりたいようにやれ」としか言っていません。あとは妻任せで……(苦笑)。

それから、子どもだけにやらせるのではなく、保護者の方もぜひ、子どもと一緒に何かに取り組んでみてください。そうすると、これまで知らなかったその子の一面が見えてくると思います。「私の子だからこうなるのよ」と決めつけるのではなく「私の子なのに、こんなことできるんだ!」ということを、ぜひ見つけてほしいですね。

前編を読む

関連リンク

矢貫俊之Instagram読売巨人軍公式WEBサイト


矢貫俊之さん   

後編のインタビューから

-選手だった経験を活かして
-公文式で学んだ「最後まで自分でやり切ることの大切さ」
-「プロ野球選手になる」という夢に向かって模索し続けた学生・社会人時代

前編を読む

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