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Vol.072 2020.09.11

読売巨人軍 球団職員
矢貫俊之さん

<前編>

行き詰まっても逃げないで
あきらめずにぶつかって
答えは自分で見つけよう

読売巨人軍 球団職員

矢貫 俊之 (やぬき としゆき)

福島県生まれ。5歳から小学校3年生までフィリピン・マニラで過ごす。帰国後は、中学まで福島県で暮らし、野球部で投手として活躍。高校は、野球の名門、仙台育英高校に進学。常磐大学を経て、三菱ふそう川崎に入社。2008年に都市対抗野球大会に出場し、同年ドラフト3位で北海道日本ハムファイターズに入団。2015年途中に読売ジャイアンツにトレード移籍。2016年末に現役引退し、球団職員となる。営業企画部を経て、2019年から広報部、2020年8月からは編成本部にて活躍中。

元プロ野球選手としての経験を活かしながら、現在は読売巨人軍の球団職員として活躍される矢貫俊之さん。この8月からは選手育成も行う編成本部へ異動となり、選手目線での仕事ぶりにますます期待がかかります。矢貫さんは野球を始めたのと同時期に公文式教室にも通い始め、「野球と公文に育てられた少年時代だった」と懐かしそうに語ります。好きで続けてきた野球ですが、「うまくいかないことも多かった」とも。そんなときはどう乗り越えたのでしょうか。現役選手当時も振り返っていただきつつ、困難に打ち勝つ秘けつ、目標に近づくための心がけなどについて、力強いメッセージをいただきました。

目次

選手の立場にたって取材をコーディネート

矢貫俊之さん

読売巨人軍の広報部員(※取材当時)としての私のメインの仕事は、選手に関する広報業務です。具体的にはヒーローインタビューなど、テレビや新聞社などから依頼される選手への取材の手配や準備をしています。選手はタレントではないので、野球に支障がないように取材スケジュールを組むのが、元選手である自分がとくに意識している点です。コロナ禍においては、記者の代わりに私が選手に質問してまとめたりもしています。

選手のよい部分をどう見せられるかを考え、それを最前線でメディアの方とやりとりできるのは、とてもおもしろい反面、一度に数十社のメディアに対応しなくてはならないのがちょっと大変なときもあります。各社によって思惑があり、取り上げたい部分が違ったりするからです。たとえば、こちらとしては今日の試合で活躍した選手を記事に取り上げて欲しいと思っていても、別の選手を取り上げたいというメディアもあり、調整の難しさを感じています。

昨年のリーグ優勝の対応も私たちの仕事でした。ビールかけの準備から、各テレビ局に登場する選手インタビューの設定まで、細かい仕事でしたが、やっぱりうれしかったですね。普段めったに感情を出さない選手の喜んでいる表情を、メディアを通じて多くの視聴者の方々に伝えられたのにも充実感を覚えました。

現役時代の思い出としては、北海道日本ハムファイターズ時代にリーグ優勝したこと、日本シリーズで投げさせてもらったこと、トレードも経験させてもらったことなど、たくさんあります。

中でも一番印象に残っているのは、2013年のオールスターゲームです。東日本大震災の復興支援事業の一環として、私の故郷、福島で開催した試合で投げさせてもらったんです。両親や昔のチームメート、地元小学生のソフトボールチームも見に来てくれ、忘れられない試合となりました。すごく緊張もしましたが、地元に恩返しができたかなと思っています。

この経験が自分を成長させてくれたと感じているので、子どもたちにも「自分が頑張ってきたことを人前で発表する」という経験を、ぜひしてもらいたいと思っています。

公文式学習を通して学んだこととは?

公文式で学んだ「最後まで自分でやり切ることの大切さ」

矢貫俊之さん

私の生まれは福島県西白河郡ですが、父の仕事の関係で、5歳から小3までフィリピンのマニラに住んでいました。そこで始めたのが、野球と公文です。両方とも、海外で暮らすことを心配した両親が、友だちができればと考えて始めさせてくれました。

結果として、私はどちらにもハマりました。中2まで、私の人生の中で、公文と野球の歩みは一緒です。公文式は、「今日はこれくらいやろう」と、始まりから終わりまでを自分のペースで決められるのがよかったですね。

わからないことが悔しくて、泣きながらやった記憶もあります。公文の先生は、どこで間違えたのかは教えてくれますが、答えは教えてくれず、自分で出さなくてはなりません。この「最終的に自分で答えを出す」ことを続けてきたから、「自分で決めたことに責任を持つ」「何ごともやり切る」という私の基本姿勢が確立したのだと思います。

今でも、やり切ることができていないと、もやもやした気持ちになりますし、「今日はこれをやる。これができたら次はあれをやる」と、組み立てるのが習慣になりました。

公文式学習の魅力はほかにもあります。ひとつは頑張る気持ちが芽生えること。公文は友人と同じ空間でやっているので、その子の進度もわかりますよね。負けず嫌いだった私は、「あの子があそこまで進んでいるから、自分はもうちょっとやろう」と、野球と同じで、頑張るモチベーションになりました。

もうひとつは、同じ教室でレベルの違うことをやっているので、知的好奇心が生まれることです。あるとき、中学生のお兄さんの数学のプリントに、ルートの問題が1つしか書いていないのを見て、「なんだ、あれは!」と興味が湧いた覚えがあります。自分がそのレベルになったとき、「あのときのお兄さんはこれを解いていたんだ」と納得しましたが、そうやっていろいろなレベルをやっていると、好奇心が芽生えるきっかけになりますよね。年齢的にも一番伸びる時期に、公文式でたくさんのことを学べたことに感謝しています。

夢に向かって模索し続けた学生・社会人時代

「プロ野球選手に!」と夢が明確になるも、うまくいかないことばかり……

矢貫俊之さん

日本に帰国したのは小4のとき。福島県に戻っても、公文は中2まで続けていました。公文をやめた理由は「野球を真剣にやろう」と決めたからです。

先にお伝えしたように、野球も公文と同じ時期に始めたのですが、マニラに行く前に野球をやっていたわけではなく、そもそも野球というスポーツがあることさえ知りませんでした。両親は運動好きで、父はバスケットボールをしていましたが、とくに野球好きだったわけでもありません。現地では、日本人の子が集まってやるスポーツといえば野球くらいでした。それでチームに入ってみると、「あ、自分は運動神経がいいんだな」と気づきました。公文と同じで、できるとどんどんおもしろくなっていったんです。

マニラでは日本人学校で学び、平日は公文に行き、野球チームの練習は土曜日、試合は日曜日というリズムで過ごしていました。フィリピンでは少年野球のリーグがあり、そこでMVPや打率1位など、よく表彰されましたね。そうやって評価されるのがうれしかったです。ひとつのことをクリアして、次に進む喜びは公文と同じで、それがモチベーションとなって、もっと頑張ろうと、どんどん進んでいきました。

その頑張った先には何があるのだろう、と考えたとき、「プロ野球選手」という具体的な目標が見えてきました。それまでは、将来の夢ははっきりしていなくて、小さい頃はそれこそ戦隊ヒーローとか、そんな程度だったように思います。「この夢に向かっていこう」と決めたとき、「公文をやめる」という決心がつきました。それが中2のときでした。

ところが、その先、うまくいかないことばかりでした。「どうしたら実現できるのか」「自分に足りないことは何か」「いまはこのレベルだが、これをクリアしたら次のレベルにいこう」というように、中学、高校、大学、社会人と、その時々で目標を設定して行動してきました。ひとつクリアしたら次に進むという過程は、まさしく公文で学んだプロセスと同じですね。そうしながらずっと模索し続けていました。

後編を読む

関連リンク

矢貫俊之Instagram読売巨人軍公式WEBサイト


矢貫俊之さん   

後編のインタビューから

-夢に近づくためのヒント
-矢貫さんが日ごろから心がけていることとは?
-子どもたち、保護者へのメッセージ

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