国際港湾都市、神戸で生まれ育ち、外国人は身近な存在
「国連」と聞いて思い浮かべるのは、ニューヨークの国連本部ビルかもしれませんが、国連にとっての日本における大使館とも言えるのが国連広報センターです。所長として、おもに3つの業務に携わっています。1つは日本の人たちに情報を選んで届けることです。国連の公用語は、英語、フランス語、スペイン語、アラビア語、ロシア語、中国語の6言語で、あらゆる情報がこの6言語で発信されます。ところが、日本語は公用語ではありませんので、国連広報センターが「これは日本の人たちに届けなくてはいけない」、あるいは「関心を持ってくれるだろう」という情報を選んで日本語で発信して初めて日本の人々は広く国連の活動について知っていただくことができます。
2つめは、国内にある国連関連機関の広報分野でのとりまとめ役となり、国連ファミリーとしてまとまりのあるメッセージを発信できるよう調整します。国内にはWHO(世界保健機関)、UNICEF(国連児童基金)など28の国連関連事務所があり、それぞれ異なる専門的な活動をする中、国連と日本のパートナーシップなど共通の課題もあります。その最たるものがSDGs(=持続可能な開発目標)で、現在推進に努めています。
また、日本国内には優れた技術を持つ企業や優れた取り組みがたくさんあります。そうした動きや国連に対する日本の人々の期待などを吸い上げて国連本部に伝えたりすることもしています。これが3つめで、日本の関係者に主体的に関わってもらうような橋渡し役を担っているといえるでしょう。
私が育った神戸は国際港湾都市で、華僑やインド人など、外国人が街を歩く姿は珍しくありませんでした。加えて自宅には、商社勤務の父が海外出張などで持ち帰ったさまざまな国のお土産がありました。冷蔵庫を開ければ当時まだ珍重されたキムチの匂いが広がるなど、食べ物から感じる「外国」もありましたね。祖父は経済学者でドイツに留学経験があり、祖父の家に行くたびにドイツ語の書籍や版画を目にしていました。そんな環境でしたので、幼少期から私にとって外国は身近な存在でした。
中学生くらいの時は、テレビで放映されていたNHKの「シルクロード」シリーズに影響されて、考古学者になりたいと考えていました。文章を書くことも好きで、作文コンクールで入賞したこともあります。私は覚えていないのですが、クラスメートにはジャーナリストになりたいと言っていたようです。
公文式のお陰で得意になった算数が
ドイツでのつらい学校生活を救ってくれた
私は小3の時、「九九がわからない」という壁に当たり、学校に行くのがイヤになってしまいました。それを克服するために通ったのが公文式教室です。そのお陰で九九が理解できるようになりました。
そしてその年の12月から、父の転勤でドイツで暮らすことになり、現地にも公文式のプリントをたくさん持っていき、毎日解いていました。そうして算数が得意になったことが、私のドイツ暮らしを助けてくれることになります。
現地の小学校に通っていた私は、その当時、あまり豊かでないアジアの国からやってきた「肌の色が違う言葉のできない子」でした。違いをからかわれ、つらい毎日でした。言葉がわからないから勉強もわからないのですが、算数だけは解けました。かけ算は日本では「×」ですが、ドイツでは「・」なのです。最初はそれに気づきませんでしたが、ある日気づいてから、解くのががぜん早くなりました。そこでドイツ人のクラスメートに、「算数の宿題を手伝ってあげるから、ドイツ語の宿題を手伝って」と交換条件を出したのです。それを機にドイツ語の習得が進みました。子どもなりに、生きていく術を考えたのですね。
もう1つ、私を助けてくれたのが日本人としての手先の器用さです。クリスマスツリーのオーナメントを、私がサッと折り紙でつくると、「うわー」と尊敬のまなざしに。芸は身を助けるのだな、と実感した出来事です。そうやって少しずつみんなに馴染んでいきました。
ドイツは、日本と同じ第2次世界大戦の敗戦国ですが、日本と違って国が東西に分断されました。親戚に会いたくても会えないわけです。そうした状態を知り、国際政治は遠い世界のものではなく、自分たちの生活に影響を与えるものだということを実感しました。
公文式での学びは現在も役立っています。私は文系ですが、マネジメントする中で必要な収支バランスや予算など数字に対してのアレルギーはありません。これは公文式をやっていたお陰だと思います。
子どもの頃マイノリティだったことが
「道がなければ切り拓く」発想の原点
中1で帰国し、高校まで地元の神戸でしたが、とにかく故郷を離れたくて大学は東京へ。在学中はバンド活動に没頭したり、名画座で朝から晩まで映画を観たりと、自由を謳歌していました。伝える仕事に関心をもったのは、大学3年の時、ラジオ局でDJをする機会に恵まれたことがきっかけです。「こういう仕事もあるのか」とマスコミに興味がわき、テレビ局に就職することにしました。
アナウンサーとして勤務して数年後、政治記者となり、日米貿易摩擦の担当になりました。しかし、自分は実際に国際経済を勉強していたわけではありません。それなのにしたり顔で解説している自分にふがいなさを感じ、アメリカの大学院で国際関係論を学ぼうと考えました。当時、社内に留学制度はありませんでしたが、上司にかけ合って実現したのです。
私のモットーは「当たって砕けろ」「転んでもただでは起きない」。「制度がないならつくる」「道がないなら切り拓けばいい」そんな発想で生きてきました。背景には、マイノリティとして放り込まれ、自力で泳いでいかねばならなかったドイツでの生活が大きく影響していると思います。肌の色の違いで区別されることに理不尽さや悔しさを感じ、それがこうした発想を持つことにつながったのでしょう。だから上司にかけ合うのも何てことなかったのです。
こうした体験を通して自分の中で強く芽生えた気持ちは、「マイノリティの悲哀」です。ドイツ時代、帰国子女時代、東大時代、私は常にマイノリティの立場でした。「人と違う」ことに対してややもすると、同化圧力が強い中、自分が異なる考えを持っていることを隠さざるを得ませんでした。息苦しく感じることもありました。
記者になっても、今でこそ国会や政治を担当している女性記者は多いですが、当時は圧倒的な少数者で、多数者の論理に自分を合わせなくてはなりません。異論を唱える場合は、かなり計算して角が立たないような言い方をしなくてはならず、神経をすり減らしていました。「このエネルギーを本質の方に注げる時代になればいいのに」と、ずっと思っていました。
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