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Vol.017 2015.01.14

リバネスCEO 丸幸弘さん

<前編>

興味があることはまずやってみる
早くやってみる、突きつめてやってみる

そのプロセスで夢は必ず現れてくる

株式会社リバネス代表取締役CEO

丸 幸弘 (まる ゆきひろ)

1978年神奈川県生まれ。東京薬科大学生命科学部卒業、東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程修了。2002年に大学院生15人でリバネスを設立、日本で初めて民間企業による先端科学の出前実験教室をスタート。理科教育に力を入れるとともに、地球規模の課題を解決することを目標に、現在までに30社以上のベンチャー企業立ち上げに携わるイノベーターとしても活躍。東京大学発のベンチャーとしては初めて東証一部に上場した株式会社ユーグレナの技術顧問も務める。

中学高校時代は「ヤンキーで、バスケとバイクにはまり、勉強はまったくしませんでした」と笑う丸さん。いまは、小中高生向けの理科教育から最先端科学技術研究まで、幅広い事業分野をもつ株式会社リバネスの代表です。これまでの道のりや夢との向き合い方についてうかがいました。

目次

    サイエンスとテクノロジーの力で地球規模の課題を解決する

    リバネスCEO 丸幸弘さん

    ぼくらの会社リバネス(Leave a Nest)は、「科学と技術をわかりやすく伝え、課題を解決する」がモットーであり仕事です。「何をしている会社なの?」と聞かれることも多いのですが、こう考えてみてください。ふつうの会社には「会社」という「囲い」があり、決められた入口から入社します。でも、ぼくらは「囲い」を作らず、誰でもが見えるところに「課題」を置きます。

    すると、「この課題の解決には自分の力を活かせそうだ」と感じた研究者たちが集まってくる。この研究者の集まりがリバネスであり、挑みたくなるような「課題」を設定したりするのがぼくらの仕事です。その課題を解決することが世の中の役に立つので、リバネスは研究者の集団であり、アントレプレナーの集団でもあると思います。

    私が関わるほかの会社、日本初の個人向け大規模遺伝子解析サービスのジーンクエスト、コミュニケーションロボットOriHimeのオリィ研究所、次世代風力発電のチャレナジーなども、みんな同じベクトルでのスタートです。世の中にある課題と、そこにつながる科学技術を具体的に抽出、解決に向けて仕組みを設計する。そのプロセスで自然と研究者が集まる。リバネスがこれまで約30のベンチャー企業を立ち上げたり支援したり、200以上のプロジェクトに取り組めているのは、そういう構造だからなんです。

    たとえば、ぼくが技術顧問を務める、東証一部に上場したユーグレナというバイオテクノロジーの会社は、藻の一種であるミドリムシの力で地球規模の食糧・エネルギー・環境問題などに取り組んでいます。ミドリムシの光合成を利用しようという計画は20年ほど前にもありましたが、大量培養がむずかしく頓挫しました。でも、「今ならできるかも、やっちゃおう!」と人が集まったのが始まりです。

    課題の種類と科学技術を伝える相手や方法によって、リバネスという会社は「ベンチャー立ち上げのコンサルティングの…」「技術移転の…」「理科教育の…」と、いろいろな冠を付けた呼ばれ方をします。でも結局、ぼくらがやっていることは、ひとつ。ぼくたちの大好きなサイエンスとテクノロジーがどう役立つのかを考え、それを必要とするところにわかりやすく届ける。それがリバネスの仕事です。

    じつは、リバネスはぼくが大学院生のとき15人の仲間といっしょに立ち上げた、研究者だけのベンチャー企業なんですが、スタートした場所はある公文式教室だったんです。このことは、またあと(後編)でお話ししますね。

    丸さんが肌で感じたシンガポールと日本の学校の違いとは?

    人間の多様性を学んだシンガポール時代

    リバネスCEO 丸幸弘さん

    ぼくは幼稚園から小学3年の2学期までシンガポールですごしました。ほんとうに異文化にあふれていて、中国、インド、マレーシア、インドネシア、イギリス、日本、…さまざまな国の子どもたちが同じ学校に通っていました。そうすると弁当が面白いんですよ。インド人はナンだったり、イギリス人は毎日バナナとリンゴだけの子がいたり。うちはもったいない文化の日本ですから、前の晩の残りもの(笑)。みんなで弁当を見せ合ったり、交換するのが楽しかった。

    ところが日本に帰ると、給食でみんな同じものを食べ、帽子とランドセルという同じ服装。体操服も同じ、出席番号があって……。正直、子どもながら、まるで囚われの身にでもなったような感覚になりましたね。なぜ、こんなに「同じ」なのだろうと。

    授業の内容もショックでした。シンガポールでは宿題が多く、学校で「たいへんだったね」とか言い合うほど、英語や漢字の書き取りをたくさんしました。学校の授業は、みんなで考えたり討論したりと、ひとりではできないことをやる場でした。日本では授業中に静かに漢字の練習をしたり、教科書と同じ内容をノートに写せと言われたり。そういうギャップにもとまどいました。

    もちろん日本にもいいところはいくつもあります。ぼくは、日本の教科書はすごいと思います。ページ数はそれほど多くないのにとてもわかりやすい。学習内容が小中高ときれいに体系的に整理され、全員の学力の底上げを図るにはとても適している。だから日本の教科書は海外できっと売れると思います。ビデオ教材などをうまく組み合わせれば、質の高いe-ラーニングシステムができるかもしれません。

    小学3年で日本に帰ってきたあと、しばらく公文の教室に兄といっしょに通っていたのですが、当時の記憶はほとんどなくて…。ただ、がんばれば学年を越えた教材が学習できる、自分のペースに合わせて進み方や学習量がカスタマイズされる、そういう仕組みがいいなと感じたのはよく憶えています。多様性の塊のようなシンガポールでの生活は、ぼくの原体験として大きいのですが、その思いがそう感じさせたのかもしれません。

    中学高校時代の丸さんのオモシロエピソードとは?

    物事のスジを通す「ヤンキー」という生き方に学ぶ

    リバネスCEO 丸幸弘さん

    小さいころは生き物も科学も大好きだったし、小学校はそこそこ良い成績だったのですが、中学高校と学年が上がるに連れてどんどん勉強ぎらいになりました。中学高校ではバスケとバイクにはまって、まったく勉強せず、仲間といろんな遊びをして楽しんだ時代でした。

    そのころは、完全に「ヤンキー」でしたね(笑)。悪友が「バイクってさ、部品を集めて組み立てれば動くんだぜ」と言うので、みんなで粗大ゴミ置場に捨てられたバイクを5~6台持ち寄って分解し、まだ使える部品を集めたんです。それから専門書のような分厚い本を読みながら、バイクの構造はよくわからないけど、この部品がこの図のこれ?とか、このパーツはガスを圧縮するもの?とか、一所懸命読み解きました。組み立てるまでに何週間かかかりましたが、エンジンが音を立てて動いたときの感動はものすごかったですよ。私有地の農道で、自分たちが作ったバイクを乗り回したときは本当に楽しかったです。

    あるとき応援団長をやることになったんですが、これは気合が必要だと思い、応援の当日はボンタンに短ラン、リーゼントで決めるぞ!と。ドラマか映画にでてくるような、田舎のヤンキーですね(笑)。それを聞いた中学校の先生方は「そんな恰好でやるのか…。どうしてもやりたいのなら、やってみろ」「ただし、お前たちがやりたいことを通すなら、われわれもやるべきことを通す」と釘を刺されました。

    結局、当日は予定通り、その格好で応援を敢行したのですが、そのあと先生方に呼ばれました。「よくやったな。じゃあこちらも教師としてやることをやるから、尻を出せ」と、きっちり“教育的指導”を受けました。互いにスジを通したんです。どちらも真剣だったんですね。でも、いい先生方でした。

    これはとてもいい体験だったと思います。自分がやりたいことを、実際に突きつめてやってみて、ときには痛い思いをし、はね返ってきた何かしらの結果が身体のなかに入ってくる。そのころ勉強は大きらいでしたが、自分のやりたいことを外にぶつけ、その反応を受けとめつつ実現する、そういうことを体感的に学べたのではないかと思います。

    関連リンク
    株式会社リバネス


    リバネスCEO 丸幸弘さん  

    後編のインタビューから

    – まったく勉強しなかった丸さんが、「勉強しよう」と思うようになったきっかけ
    – リバネスがスタートした場所は、ある公文式教室だった!
    – 丸さんが考える「夢のもち方」、そして丸さん自身の「いまの夢」とは?

     

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