負けず嫌いだから続けてこられた
正直言うと、勉強はあまり好きなほうではなかったです(笑)。親に言われて無理矢理……とまではいきませんが、親に叱られながらしぶしぶ勉強していたように思います。でも公文に関しては、教材が先に進んでいくことに喜びを感じていたのを憶えています。当時、自分の教材進度が全国でどのくらいの順位なのかがわかる印刷物があって、自分の名前が上位のほうにあったりするととても嬉しかったですね。
小さいころは、家の外では公園で鬼ごっこをしたり、家の中ではトランプやオセロなどのゲームをしたり、本当にふつうの子どもだったと思います。その遊びのひとつとしてあったのが囲碁です。父がもともと囲碁好きで、ゲームといっしょに教育の一環としても、囲碁を子どもに教えていました。父には「囲碁は頭脳を鍛える」という考えもあったようです。私が初めて囲碁に触れたのは5歳のときだったと思います。2歳上の兄とほぼ同時期に始めました。だから物心ついたら生活のなかに囲碁があったという感じですね。ただ、囲碁も勉強と同じで、父に叱られながらでした。父はいつも厳しかった印象があります。
実はそのころ、たまりかねて囲碁をやめていた時期があったんです。兄といっしょに習い始めるのですが、その年齢のころの2歳の差は大きいじゃないですか。当然兄のほうが理解力も体力もあるので、どうしても兄に勝つことができない。それがイヤでイヤで「ボクもう囲碁やめる!」と言ったらしいのです。だけど、そうは言ってしまったものの、兄が打つのをずっと横で見ていたり、やっぱり勝ちたいし興味をそそられていたんでしょうね。
そう、負けず嫌いなんです。でもそういう性格だから今まで続けてこられたんだとも思います。これまでの人生の中で囲碁を打っていないのは初めのころのその時期だけです。それは挫折といえば挫折なのでしょうが、小さいうちにそれを味わっておいてよかったのかもしれません。
小3の冬、プロを目指し上京
家族は4人で僕は末っ子。だから甘えん坊でしたね。僕たち兄弟は父親から囲碁を教わっていたので母もいっしょに憶えて、よく家族で碁を打ちました。そのころは、囲碁が家族の絆のようなものだったのかもしれません。僕が碁会所に通うようになってから、送り迎えをしてくれていたのは母です。対局が全部終わるまで待ってくれることもありました。そのうち、旭川市の郊外に住んでいたのですが、碁会所に通いやすいようにと市街地へ引っ越しまでしてくれたのです。囲碁をやる環境を両親が整えてくれていたんだなぁと思います。
碁会所に行くと周りは大人ばかり。けれども対局すると私が勝つこともけっこうありました。そうなるとまだ子どもですから、すぐ調子に乗ってえらそうなことを言ってしまうことがありました。そういうとき、父にこっぴどく叱られましたね。「そういう失礼なことは二度と言うな」と。勝ったのになぜ喜んじゃいけないんだろうと幼心に疑問だったのですが、歳を重ねるにしたがい、「あぁ自分は大人の方たちにずいぶん失礼な態度をしていたな」と改めて反省することがあります。父は大事なことを教えてくれていたんですね。
小学2年のとき、初めて全国少年少女囲碁大会で優勝し、いろいろな方から「プロになるのなら早く東京へ」とアドバイスをいただきました。そのころから少しずつ、自分の進むべき道はこっちなのかなぁと思うようになったのでしょう。しかし、囲碁のプロというのがどういうものかはよくわからず、「そういう道があるのなら、囲碁は好きだし……」くらいの気持ちだったと思います。そんな気持ちを知ってか知らずか、父は「プロになるには東京に出ていくしかない、生半可な気持ちでプロになれるものではない」と、私にくり返し諭していました。その言葉の本当の意味が分かるのはもっと先のことですが、小3の冬には母と東京へ住むことになりました。
囲碁の学びの場が教えてくれた、人としての礼儀
プロの世界の厳しさを垣間見たのは、小5で「院生」というプロ棋士の養成機関、将棋でいう奨励会のようなところに入った時期ですね。小2で大会で優勝して、地元では「小学生天才棋士」と呼ばれ、自分でもちょっと勘違いしていた時期もあったのですが、東京には強い人がたくさんいて、なかなか勝つことができませんでした。「やっぱりそんなに簡単に勝てる世界じゃないんだ」と、かなり身に沁みました。
上京してすぐ、私は緑星囲碁学園(以下「学園」)という囲碁の学校(教育機関)に通いはじめました。この学園は本来プロを育てる学校ではないのですが、結果として多くのプロがそこから輩出されています。また、囲碁の技術的なことよりも、人間形成や礼儀作法などを重んじるところでもありました。ですので、私もたくさん叱られましたね。
今でもはっきり憶えているのは、旭川と東京では大きく環境が違い、囲碁の勉強にまったく身が入っていなかった私に、学園の先生が言った言葉です。「旭川にいるお父さんの気持ちになって考えてみろ」。これは効きましたね。裕福な家ではないのに、遠く離れた東京に住む私を父は養ってくれている。それがきっかけになって、「しっかり囲碁の勉強をしなきゃ」という意識に変わりました。「プロを目指そう」という目標をもちました。家族と離れて暮らすという厳しい決断をしてくれた父に、私は何ができるのか。両親の思いの深さは今になってやっと分かるようになりました。子どもがやりたいということを最優先で考えてくれたことには本当に感謝しています。
上京してから二十歳くらいまで、学校が終わったあと、私はほとんどを学園で過ごしました。学園は何かを教えるというよりは、子どもたちに囲碁の勉強の場を提供しているところ。対局するだけでなく、人の試合を見て学んだり、何人かで集まって研究し合ったり。教えてくれるのを待つのではなく、課題を自ら見つけて取り組まないといけない場所でした。ここで多くの友人もできましたし、ふつうの人の青春とはだいぶ違うかもしれませんが、僕にとっての青春時代はこの学園にあります。
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