読書を楽しんだ江戸時代の人々
江戸時代は木版印刷の発展もあり、絵入りの手軽な読み物から、小説、健康やマナーに関する実用書、名所案内などの観光ガイドに至るまで、実に多彩な書籍が出版されていました。しかし、『東海道中膝栗毛』や『南総里見八犬伝』といった続き物の小説などは高価で購入するのが大変でしたから、貸本屋で本を借りて読むことが一般的だったようです。幕末には江戸だけでも800軒ほどの貸本屋があったと言いますので、いかに人々が読書に親しんでいたかが分かります。
そのような話を聞くと、江戸時代の人々は当たり前のように文字の読み書きができたように思ってしまうかもしれませんが、人々の文字の習得状況は一様ではありませんでした。
江戸時代には士・農・工・商の身分制度がありました。特に武士と庶民は区別が厳格で、子どもの教育機会も異なります。武士は社会の支配階層としてふさわしい文武の教養が求められたため、その多くは藩校などで漢学や儒学などを学びました。また藩士の職務でも文字の利用は必須であり、基本的に文字の読み書きはできたと考えてよさそうです。
一方、庶民は必要に応じて地域の寺子屋で日常生活や仕事に必要なことを学びましたが、義務教育ではなく、すべての子どもが寺子屋に通ったわけではありません。また学ぶ内容や程度は、家業での必要性や本人の意欲次第でした。当時の寺子屋師匠が記録していた指導日誌や、寺子屋に通っていた人々が後にのこした回想などを見ても、みんなが難しい漢字まで読み書きができたわけではなさそうです。
寺子屋での学習の実際

こちらは寺子屋の様子を描いた浮世絵です。この絵には16人の子どもが描かれていますが、そのうち真面目に勉強をしているのは師匠の近くにいる、比較的幼い3人だけで、年長の子どもたちは楽しそうに遊んでいます。ちなみにこの浮世絵に描かれているのは、すべて女性です。
これは浮世絵ですから、多少の誇張はあるでしょう。しかし浮世絵や本の挿絵などに描かれている寺子屋の場面で、全員が真面目に学習していることはまずありません。
また珍しいものでは、幕末に日本を訪れた外国人が描いた寺子屋の絵も残されていますが、師匠が見台の前で裃を着て正座している周りで、やはり子どもたちは遊んだり、寝ていたりします。
これらのことから考えると、「寺子屋では、すべての子どもが真面目に勉強していることはありえない」というのが、寺子屋の実際だったのでしょう。
では、真面目に勉強している3人の学習内容を見てみます。
師匠の前に座っている子は、本を音読しています。内容を確定することはできませんが、書かれた文字から推測するに、女性向けの教訓書のようです。

文字を書く練習をしているのは2人。一人は「いろは」とひらがなの練習です。もう一人の手本には「松柏」というおめでたい言葉が見えます。いずれも一文字の大きさが大きいことから、文字や言葉を覚えるという段階にあり、文章を書くというレベルまでは至っていないようです。


江戸時代の識字率を考える
江戸時代の識字率を推測するのは非常に難しいことですが、明治になってから全国各地で行われた自署率(自分の姓名を書くことができる割合)調査はそのヒントになりそうです。
明治20年前後に行われた各県の調査を比べてみると、男子の自署率が9割を超える県がある一方で、女子の自署率が1割にも満たない県もありました。この結果から推察すると、江戸時代の人々の読み書きレベルは、身分だけでなく、地域差や性差がかなり大きかったことがうかがえます。
ちなみにこれらの調査は、学校の設置や国民皆就学を義務付けた学制が公布されてから15年ほど経った時期のもの。江戸時代から寺子屋などの教育機会が多くの人々に開かれていたとはいえ、大多数の人々が文字の読み書きができるようになるまでには長い時間が必要だったのです。
では、このような読み書きレベルであったにも関わらず、江戸時代、多くの人々が読書を楽しむことができたのはなぜなのでしょう。次回はそんな江戸時代の読書のヒミツに迫ります。
参考文献:八鍬友広『読み書きの日本史』(岩波新書 2023)