オリンピックの厳しさを知ったリオ五輪
![]() (撮影)Hiroyuki Nakamura/PICSPORT |
リオデジャネイロは……そうですね、今までのオリンピックとは少し違う思いがありました。肉体も精神も、いい意味でピークを迎えていました。たしかに風の影響がないと言ったらウソになりますけど、どの選手も同じ条件下で試合をしている中では、あのタイミングでダイブした自分の判断にミスがありました。そのミスは自分の実力のなさだと今は思います。(※結果は残念ながら予選敗退)
それに関してはやはり悔しいです。自分の中では毎回集大成だと思いながら試合をしていますので。ただ、現役から離れて数年経たないと、あれが自分のピークだったとはわからないと思うんですよね。今年よりももしかしたら4年後の方がいいかもしれないですし。だからこそ、日々のトレーニングが重要になってきている。そういう意味では5回目の出場にして初めてオリンピックの難しさがわかったのかもしれません。
もともと転向したきっかけは、苦しい競泳よりも、飛込はぴょんぴょん跳ねるとても楽しそうな競技に見えたからです。ところがいざ、オリンピックを目指してみると、練習量がものすごく多くて……1日2時間の競泳の練習ですらいやだと言っていた子どもが、気付いたら一日11時間やらなければいけない状況になってしまったんです(苦笑)。休みといえばお正月、それも元旦にプールに行って、コーチに「明けましておめでとうございます」のあいさつをして、そのあと2時間のトレーニングはほぼオフだと思っていたくらいですから。
飛込競技の演技は、一本約1.6秒です。その1.6秒にどう真髄を詰め込むか、練習してきたものだけではなく、その土台にある人間性までも問われる気がします。それが選手としてパフォーマンスをする僕からみた飛込競技の魅力ですね。たった1.6秒に選手が積み重ねてきたすべてを凝縮するというのは本当にすごいことだと思うんです。
勉強は大切な「息抜き」だった
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生後半年から母親に連れられてベビースイミングを始め、物心ついたときには週に2~3回はプールに入っていました。飛込競技に転向したのは小5の時でした。当時身長が140cmもなかったんですよ。かなり小柄でした。同じ年代で160cmぐらいの子もいましたし、競泳ではこの体格ではちょっと太刀打ちできないだろう、という思いもありました。結果が出ないから日々の練習の意味を見いだせない。体を動かすのが好きな子どもでしたが、苦しいことからは正直なところ逃げたかった。
中学時代は、入学式、卒業式、修学旅行、運動会……学校のイベントにはほぼ出ていなかったと思います。だからこそ、学校で過ごせる時間を大切にしたいと思っていました。あとは自分が飛込競技でどんなにいい成績を残したとしても、学校で寝ていたり勉強をおろそかにしていたら、選手としてどうなのかな?という思いもありました。それはコーチから「トップになる資質」として、口酸っぱく言われていたことでもあります。
だから、合宿に参加するため、学校に行けない時間があればあるほど、「勉強せな……」という気持ちになりました。とりわけ好きだったのは社会と国語でした。祖父からはよく、「きれいな字を書くと賢く見えるし、ノートを見返した時にわかりやすい」と言われていました。だからノートはいつもキレイでしたよ。
あとは先生から個別に課題をもらったり、自分なりに工夫して勉強していました。遅れをとっていると思うと、友達と過ごす学校生活がつまらなくなってしまうと思ったからです。学校は競技の練習以外で大切なホッとできる時間、それは勉強も含めて息抜きでしたね。
ただただ見守ってくれていた母親
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飛込競技に転向してからの1か月は、いわゆる「アメとムチ」のアメばかりでした。そしてあるときを境に、急に水には入らせてもらえなくなり、ただひたすら柔軟運動と筋トレの日々。競泳時代よりもずっと辛かったですね。コーチの中では、すでにオリンピックというものを視野に入れながらのトレーニングでした。コーチは中国出身の、それはもう厳しい人で……。うちの親に対しては、「見ているのはつらいかもしれないが、この子の人生にとって非常に意味があることだから」と説得していました。
「見ているのはつらいかもしれないが……」という意味はすぐにわかりました。飛込競技を始めて数ヵ月後、早くも中国に3か月半の合宿に行くといわれたんです。そこから僕にとっての地獄がスタートしました。忘れもしない小学5年の2月です。海外も初めて、そんなに長い期間にわたって親から離れたこともない。正直どこかで、「中国に餃子でも食べに行くのかな?」くらいに思っていました。
しかしもちろんそんなことはなく、着いた翌日の早朝5時から走り込み。それから11時間みっちりの練習、という日々が3ヵ月半続きました。新聞紙を切り取って、「あと○○日」という日めくりカレンダーを作って、ようやく3ヵ月半が終わり、「これでやっとお母さんに会える」と思った1週間前くらいでしょうか、コーチから告げられたのは、「お前だけあと1か月残れ」と……。
今思えば、よく親は小5の子どもを一人海外に、それも4か月半も出しましたよね。コーチの責任と、親の見守る姿勢、それは物凄くタフだったんだなあと。合宿中親へ電話することも禁止されていたんですけど、一度だけ、合宿の延長が決まったときに電話したんですよ。「帰りたい」って大泣きする僕に母親は、「あと1か月やん。3か月半がんばれたんだから大丈夫」って。でも後から母に聞いたら、「今すぐ自分が中国に行って飛込をやめさせて連れて帰る」って、そう思っていたそうです。自分が親になったときにわが子にそれができるかなって考えると……難しいですね。
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