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Vol.039 2016.12.22

飛込競技選手 寺内健さん

<後編>

「1.6秒」の演技に
積み重ねた鍛錬のすべて凝縮
最高瞬間を迎えたいからを尽くす

飛込競技選手

寺内 健 (てらうち けん)

兵庫県出身。生後半年から水泳を始め、小学5年生のときに競泳から飛込に転向、以後通算5大会でのオリンピック出場を果たす。五輪での最高位はシドニーでの高飛び込み5位。2001年の世界選手権では、3m飛び板飛び込みで日本人初となる銅メダルを獲得。現在ミキハウスに所属し、東京五輪で通算6度目のオリンピック出場を目指す。

16歳で初出場したアトランタ五輪に始まり、シドニー、アテネ、引退を決意した北京を経て、サラリーマン生活を挟んだのちに現役復帰を果たし、5度目となるリオデジャネイロ五輪に出場。長きにわたり日本の飛込競技のエースとしてけん引し続けてきた寺内健さんは今、「飛込道の集大成」として2020年の東京五輪を目指しています。厳しい競技の道を選びながら、なお前に進むことをやめない寺内さんに、あきらめないで積み重ねる力の秘訣を伺いました。

目次

    選手としての「深みを増す」ために必要なこと

    飛込競技選手 寺内健さん

    「飛込は怖くないか?」と、よく聞かれます。もちろん怖いです。でもその恐怖心は持ち続けていなければいけないと思うのです。むしろ恐怖心というネガティブな部分をどうエネルギーに変えるか。恐怖心を突き詰めて、今自分は何をしなければならないかというところに行き着くことが、最大の集中になります。恐怖心を「無くす」のではなく、別の力に「変える」。そしてそれは競技だけでなく、日々の生活のなかで培われるものだと思うんです。

    最近の若い選手を見ていると、練習でやってきたことだけを考えすぎて、「上手いんだけど強くない」と思える選手が多い印象です。それはどういうことかというと、練習では上手いのに、試合で“100%以上”のものが出せない。練習以外の場所でどういうものを見て、どういう人と話して、どういうことを感じるか、が足りないんです。競技のための練習に加えて、五感を研ぎ澄ますことが、すべてをエネルギーに変えるためにはすごく大事です。

    僕にとってそれは、「音楽」と「ファッション」でした。音楽を聴いていると試合前は集中し、練習後は解放的になる。音楽やファッションを通じて知り合った、違う業界の方から応援していただくことが、自分にとってすごくエネルギーになりました。競技の「深みが増す」といったほうがいいのかもしれません。とくにヒップホップは、お金のないところから自分たちのものを作り出したという点で、飛込競技とちょっと似ていると思うんです。

    この年齢になって意識することは、最高の状態をさらに1%でも上げるのがどんなに難しいことかということ。若い選手の目の前に広がる大きな道に比べて、経験があるぶん、僕はものすごく細い道を歩いているんだと思うんです。だったらこの細い道をどれだけ強くするか。だから貪欲に色々なものに触れていこうと思うし、それこそ「道を究める」ということなんじゃないかなと思っています。

    寺内さんを救った言葉とは?

    自分を救ってくれた、野村忠宏さんの言葉

    飛込競技選手 寺内健さん

    初出場のアトランタ五輪のときは、完全に浮かれてしまった記憶があります。同五輪で結成された、アメリカのバスケットボールのドリームチームを見た時なんかは、この上なく興奮してしまいました。選手村はマクドナルドもゲームセンターもタダでしたし、当時16歳の少年でしかなかった僕にとってはまさに夢の国でした。

    その時ふわふわしていたぶん、今度はきちんと試合を突き詰めたいとのぞんだのがシドニーです。シドニーでは高飛び込みが5位入賞で、それが僕のオリンピックでの最高成績になっていますが、その前の世界選手権ではすでに5位を経験していました。ですからそれくらい上位に自分は入れると思ったオリンピックだったので、「(メダル圏内まで)あと15点、イケるでしょ?」って、初めて「メダル」を意識しました。

    その15点を考えながら挑んだのが、次のアテネでした。それと同時に、メダルを意識してオリンピックで最高のパフォーマンスをするのがこんなに難しいことなのか……を痛感したオリンピックでした。決勝の日、今までの練習、コーチに怒られたこと、すべてが走馬灯のように思い出されて、頭が真っ白になって倒れそうになったんですよ。僕の試合前に競泳の(北島)康介が初の金メダルを獲って、アイツの偉大さを本当に感じました。

    2008年の北京五輪のときは、引退を決めることで自分を奮い立たせて、最後のパワーを振り絞ろうとしていたのかもしれません。だけどメダルのために挑んだ大技が失敗してしまって、結局メダルには届かなかった……。

    参加した大会が多ければ多いほど、メダルがないことの苦痛が自分の中にありました。それを払しょくしてくれたのが柔道の野村忠宏先輩のこんな言葉でした。「オリンピック5大会、それほどの長い間をトップでやり続ける精神力は本当にすごいと思う」。自分が抱えていた「痛み」が解消された気がしました。

    今回のリオ五輪で、予選で負けてしまった僕をミックスゾーン(取材エリア)で待っていてくれたのが、本来は決勝のみ応援にくるはずだった康介と野村先輩でした。初めて飛込をやり続けてきた中で泣きそうになりました。この競技をやってきて良かったな……と。

    寺内さんのこれからの夢とは?

    “ノースプラッシュ”の感動を多くの人に知って欲しい

    飛込競技選手 寺内健さん

    長く僕の練習パートナーを務めていてくれた選手がいました。パートナーだけどほぼ同じ練習をするし合宿にも同行する、今でも僕の親友です。これはつい最近知った話ですが、彼はコーチに「お前はオリンピックには行けない。だけどお前が健と練習することで、健はオリンピックに行くことができる。どうするか?」と言われていたそうです。その彼が「わかりました」と了承してくれたことで、僕のオリンピックへの道はスタートしているんです。もちろんそんなことなんて全然知らなくて、彼の前では「こんな練習イヤやわ」とか、「世界選手権は緊張するから出たない」とか、弱音吐きまくる僕を、彼は「そやな」と全部受け止めてくれていました。

    その親友や康介、そして野村先輩……辛いときに支えて、励ましてくれた人たち。僕自身が「応援される人間」にならなければいけないなというのは、最近とくに感じることです。応援は選手にとって絶大な力を持っています。つねに色々な人とのコミュニケーションを怠らず、「応援したい」と思われるような人間でありたいと思っています。

    そして2020年東京五輪は、コーチやスタッフではなく、自分の体でもう一度戦いたいという心境です。年齢的にどう考えても、次が自分にとってはラストチャレンジでしょう。自分の“飛込道”を究めるということに徹したいと思います。

    飛込はまだまだマイナーな競技です。それは自分も、後輩たちもどこかコンプレックスに感じています。でもじつは、飛込競技はオリンピックのプラチナチケットなんですよ!選手の名前がコールされると上がる大歓声、やがてそれが一気に静まり、まもなく飛び込んだ直後に響く「ザク」っという分厚い音……それが「ノースプラッシュ」。水しぶきが上がらない技術を身につけたものだけが出せる音です。その震えるような瞬間をもっと多くの人と共有したい。僕もその瞬間のためにできることに努力は惜しまないつもりです。

    関連リンク寺内 健|ミキハウススポーツクラブ


    飛込競技選手 寺内健さん 

    前編のインタビューから

    -オリンピックの厳しさを知ったリオ五輪
    -寺内さんが中学時代に「息抜き」と思っていたこととは?
    -つらかった中国での長期合宿、母親がとった行動とは?

     

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