「すべての人に教育を」
その実現のための枠組みを研究
私の専門は「発展途上国の教育開発」です。とくに、教育機会を与えられない女子教育への興味からスタートし、最近は障害児など特別な教育ニーズが必要な子どもたちが通常学級で学ぶ「インクルーシブ教育」の研究にも力を入れています。
もう一つ、早稲田大学の国際部長という役職をやっていることもあり、「アジアの高等教育における国際交流・国際連携」、具体的には、アジアの高等教育における域内流動性や連結性を高めていくためのあり方などについて研究しています。
前者の観点からいえば、私は自分を「EFAについての研究者」、と位置づけています。EFAとは、1990年、タイのジョムティエンで開催された、「万人のための教育世界会議」に始まった「すべての人に教育を(EFA:Education for All)」というスローガンです。その後、2000年のミレニアム開発目標(MDGs:Millennium Development Goals)を経て、2015年には持続可能な開発目標(SDGs:Sustainable Development Goals)が国連において採択されました。この中には、「すべての人が公平に受けられる質の高い教育の完全普及と、生涯にわたって学習できる機会の向上」という教育目標があります。その実現に向けて、国際社会がどのように取り組むか、といった枠組みづくりに関心があります。
今でこそ「教育開発」という分野が確立されつつありますが、私が研究を始めたころ、日本にはこの分野の研究者はほとんどおらず、「教育開発の研究者になっても日本では仕事はない」と言われるほどでした。というのも、日本は戦前・戦中に植民地や占領下の東南アジアで日本語教育や日本の教育制度を強制した歴史的反省もあり、「教育はその国の根幹をなすものであるため、他国が干渉すべきものではない」との考えが根強かったからです。ですので、現在の日本の国際教育協力の進展には、目を見はるものがあります。
カトリックの中学に進学し
「教育が人を変える」ことを実感
私が教育や途上国に関心をもつようになったきっかけは、進学した明治学園というカトリックの中学校での学園生活にありました。この学校では、マザー・テレサの活動を学んだり、合宿で人生について語り合ったりと、学園生活のさまざまな場面で、自分の生き方を考える機会に恵まれました。
先生の中には、カナダから来られた修道女の先生方が多くおられました。当時、マザー・テレサのビデオを見せられたとき、私以外のみんなは「すばらしい」と感動したのですが、私は「では、なぜ先生方はここにいるのですか?」と先生方に意地悪くきいたことがあります。マザー・テレサのような活動を素晴らしいというのであれば、わざわざ豊かな日本に来なくてもいいじゃないかと。するとあるカナダ人の先生が、「ここにも貧しい方がたくさんいらっしゃいます」と言われ、私はハッとしました。―― まさに私自身の心が貧しかったのです。
「貧しい」というのは経済的な貧しさだけではありません。精神的な貧しさもある。先生方には、「豊かさ」とは何かに気づかせてもらったと思いますし、そんな学園生活の中で、「自分を変えていける、教育が人を変えていくんだ」と実感するようになりました。当時の実感や経験が、学校や教育に関心を持つきっかけになったのは間違いありません。
中学卒業後は地元の県立高校に進学しました。そこで養護施設に行ったり募金活動をしたりするボランティアサークルに入りました。社会奉仕的な活動に目覚めたのは中学校の頃からですが、父は地元のロータリークラブのメンバーとして、地域の奉仕活動に活発に参加し、母も日常の生活のなかで、近所のお年寄りのお世話をしていたことを考えると、両親から受けた影響も大きかったのかもしれません。
小さい頃から「本の虫」
大学進学は経済学か教育学かで悩む
小さい頃から、とにかく本を読むのが好きでした。図書室の本を端から読むという感じで、まさに「本の虫」。勉強についてはあまりうるさく言わない両親でしたが、夜中まで本を読んでいることについては心配されて、怒られていたほどです。中学、高校では本好きということもあって、図書委員長を務めていましたね。
そんな中、高校時代に岩波ブックレットの『貧困』や『人口』といった本を読み、途上国の貧困問題に興味を持つようになりました。そして、大学進学にあたっては、途上国の貧困問題に取り組むための「経済」を学ぶか、ずっと関心があった「教育」を学ぶか、とても迷いました。今でこそ、そのふたつを合わせて途上国に関わる「教育開発」という分野がありますが、当時は「経済(開発)」と「教育」を一緒に学べるとは思っていなかったのです。結局、途上国の開発問題の専門家である西川潤先生(現・早稲田大学名誉教授)が在籍されている早稲田大学政治経済学部に進学しました。
大学時代には、自分を大きく変えるたくさんの出会いがありました。一つは寮生活を通してです。大学入学と同時に、私は男子学生向けの和敬塾という寮に入り、シンガポールからの留学生と仲良くなりました。そこでアジアのイメージが、「かわいそうなアジア」から「おもしろそうなアジア」に変わっていったんです。
2年次からは、アジア文化会館という留学生向けの宿舎で生活することになりました。大学卒業までの3年間をそこで暮らしましたが、留学生たちからたくさんのことを学びました。最初、異文化の人たちと生活するのは「忍耐」だと感じました。言葉一つとっても、片言の日本語やこちらのつたない英語でのコミュニケーションは、思うようにいかないこともよくあります。このようなときには、お互いに「待つ」ことが必要なのです。そのうち、「待つ」こと、多様なバックグランドをもつ彼らと一緒にいることを楽しめるようになり、彼らといろいろな活動に取り組むようになりました。
後編のインタビューから -人との出会いを通じてアジアが大好きになった大学時代 |