与えられた指揮者デビューの舞台緊張を解いたのは妻の言葉

ベルリンの学校で学んだ後、国際コンクールでの受賞はありましたが、仕事はなかなかありませんでした。留学して8年目、妻と「そろそろ(帰国の)潮時かな……」と話すこともありました。あるとき、知り合いの紹介でブダペストフィルのメンバーによる、アンサンブルのCD録音の指揮を代理で務めました。そして、その録音を見ていたコンサートエージェンシーから電話がかかってきたんです。フィルハモニア・ポランスカというポーランドのオーケストラの、ドイツ公演の指揮をお願いしたい、という依頼でした。
ポーランドにリハーサルに出かけたのですが、指揮には自信があったものの、それまでプロのオーケストラの指揮経験はほとんどなく、気持ち悪くなるほど緊張してしまいました。練習が始まってもガチガチで、しっぽを巻いて逃げだそうかと思ったほどでした。休憩時間に妻が、「力を抜いて、タコみたいにぐにゃぐにゃになってみたら?」と言ってくれて、それが効きました(笑)。力を抜いたら、自由に動けてオーケストラが思い通りに動かせるようになり、コンサートも大成功。終了後にオーケストラの団長から、「正式にうちの指揮者になっていただきたい」と依頼されたのです。
それからは幸いとんとん拍子で指揮者の仕事がまわりはじめました。ちょうど当時はLP盤レコードからCDへの過渡期ということもあって、レコード会社からたくさん録音のお仕事をいただいたのです。そしてそれが幸いにも、フランスやアメリカの音楽誌でその年のベスト・ディスクに選ばれるようなことが続きました。
もともと日本を出て30年はドイツで頑張ろうと思っていましたが、30年が経った5年前からは、NHK交響楽団や新日本フィルハーモニー交響楽団など、日本の主要な楽団とも仕事をするようになりました。歴史的建造物の保存を支援するためのチャリティコンサートという東京都のプロジェクトに関わったり、ドイツの演奏家たちを来日させて愛知県豊橋市の中高生350人に教えるオーケストラキャンプで音楽監督をしたり、最近は日本での仕事も増えてきています。
後編のインタビューから
-チャンスをつかむのに大切なのは「できるまでやること」と「願うこと」
-浮ヶ谷さんが考える「いくらあっても荷物にならないモノ」とは?
-「圧倒的な感動」を与えられる指揮者になりたい