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Vol.023 2015.08.23

指揮者 浮ヶ谷孝夫さん

<前編>

「なりたいこと」「欲しいもの」
ために 叶うまで努力をする
「できる」喜びが未来を拓く

指揮者

浮ヶ谷孝夫 (うきがや たかお)

1953年埼玉県川口市生まれ。1978年に渡独してベルリン芸術大学指揮科のヘルベルト・アーレンドルフ教授に師事。1986年にはポメラニアン・フィル(ポーランド)のドイツ演奏旅行の指揮者に抜擢され、欧州でデビューを果たす。その後は欧州のさまざまな交響楽団の客演を経て、2003年にはブランデンブルク国立管弦楽団フランクフルトの首席客演指揮者に就任。現在はドイツ在住。夫人はフルート奏者の浮ヶ谷順子さん。

ドイツのブランデンブルク国立管弦楽団の首席客演指揮者であり、現在は日本の交響楽団にも招聘され、多くのファンを持つ指揮者、浮ヶ谷孝夫さん。鋳物職人の一家に生まれ、音楽とは縁遠い環境ながら、「指揮者になりたい」という夢を一途に追い、それを叶えられました。コネもなく経済的にも厳しい逆境から、どのように夢を実現したのか。音楽、そして無限の可能性を持つ子どもたちへの熱い思いをうかがいました。

目次

音楽とは無縁の環境で育った少年がひょんなことから「指揮者になる」という夢を抱く

指揮者 浮ヶ谷孝夫さん

私は埼玉県川口市の出身です。私が子どものころの川口は、鋳物工場ばかりが並ぶような土地柄。我が家も鋳物工場の職人である父と、母そして僕ら男の子の三人兄弟で、音楽とは無縁の家庭でした。幼稚園のころ、母と川口の駅前で消防団のブラスバンドを見かけ、音楽に興味を持ちました。とくに印象深かったのがトロンボーン。幼なごころに「なんで鉄(金属)が伸びるんだろう?」と、不思議で仕方がありませんでした。

テレビでもオーケストラの演奏番組に釘づけになって、小学生のころは合唱団で活動したり、リコーダーを一生懸命練習したり。その後、中学の入学式で聴いたブラスバンド部の演奏に感激し、その日のうちに入部を決めました。

中学のブラスバンド部でご指導いただいた先生は、日本フィルハーモニー交響楽団でも活動されていた音楽家でした。ある日その先生にチケットをいただいて、初めて本格的なコンサートを聴きに行ったんです。イーゴル・マルケヴィチという有名な指揮者がタクトを振った、チャイコフスキー作曲の「交響曲第5番」。この演奏の圧倒的な迫力に、まさに腰が抜けるほどの衝撃を受け、閉演後もしばらく立ち上がれませんでした。このときから「僕は人を感動させる指揮者になりたい!」という夢を持つようになったのです。

チャンスを引き寄せた熱意と努力とは?

夢の熱さと人一倍の努力で自らチャンスを引き寄せる

指揮者 浮ヶ谷孝夫さん

しかし音楽のレッスンを受けるような余裕は我が家にはなく、しばらくは独学で音楽を勉強していました。それが、高校生のときに入ったジュニアオーケストラの先生に「君は指揮者になりなさい」と言われ、「月に1,000円だけ持ってきなさい」と形だけのレッスン代で、毎週その先生に1回3時間くらいレッスンをしていただけるようになりました。

高校3年生のときには、高校の合唱部で、モスクワで行なわれた教育音楽フェスティバル(ISME)に参加しました。そこで国立モスクワ音楽院学長であった世界的作曲家カヴァレフスキー教授から彼の指輪を与えられ、「奨学金も住むところも与えるから、ここで学ばないか?」とおっしゃっていただきました。とても嬉しかったけれど、通訳をしてくださった方のアドバイスもあって、モスクワでのお話は辞退して、ドイツ留学を目指すことにしました。音楽の本場で自分が通用するかチャレンジしたかったし、日本で音楽を学ぶのはお金がかかりますが、ドイツの学校は入学さえできれば授業料はタダ、というのも魅力だったんです。

フルート奏者の妻と結婚をしたのち、20代でドイツに渡る決心をしました。現地では師事したい教授がいて、まっさきにその方を訪ねました。紹介状を書いていただいて、話が通っていると思っていたのに、それがまったくの勘違いで……。「キミはいったい誰だ?」という状況でした(苦笑)。

でもドイツに渡ってきた以上、なんとかその方のもとで勉強したい。彼はたくさんのレッスン希望者が順番を待っているような大変高名な先生でしたが、私は教授が振り切ろうとするのも無視して、1~2時間は粘ったんじゃないかな。ついに教授が根負けをして、「わかった、次のレッスンに聴講生としてなら来てもいいよ」ということになりました。

そして聴講生としてやってきたそのレッスンで、たまたまひとりの正受講生が病欠をしたんです。先生から「タカオ、ちょっと指揮をしてみるか?」と声をかけていただきました。私は勉強してきた楽譜を積み上げて、「どの曲でも振ることができます!」とアピールし、指揮をしました。その結果、「キミの実力は認めるから、改めて受験してみなさい」ということになり、先生のもとで学ぶことができるようになったのです。

指揮者デビューの舞台、緊張を解いた妻の言葉とは?

与えられた指揮者デビューの舞台緊張を解いたのは妻の言葉

指揮者 浮ヶ谷孝夫さん

ベルリンの学校で学んだ後、国際コンクールでの受賞はありましたが、仕事はなかなかありませんでした。留学して8年目、妻と「そろそろ(帰国の)潮時かな……」と話すこともありました。あるとき、知り合いの紹介でブダペストフィルのメンバーによる、アンサンブルのCD録音の指揮を代理で務めました。そして、その録音を見ていたコンサートエージェンシーから電話がかかってきたんです。フィルハモニア・ポランスカというポーランドのオーケストラの、ドイツ公演の指揮をお願いしたい、という依頼でした。

ポーランドにリハーサルに出かけたのですが、指揮には自信があったものの、それまでプロのオーケストラの指揮経験はほとんどなく、気持ち悪くなるほど緊張してしまいました。練習が始まってもガチガチで、しっぽを巻いて逃げだそうかと思ったほどでした。休憩時間に妻が、「力を抜いて、タコみたいにぐにゃぐにゃになってみたら?」と言ってくれて、それが効きました(笑)。力を抜いたら、自由に動けてオーケストラが思い通りに動かせるようになり、コンサートも大成功。終了後にオーケストラの団長から、「正式にうちの指揮者になっていただきたい」と依頼されたのです。

それからは幸いとんとん拍子で指揮者の仕事がまわりはじめました。ちょうど当時はLP盤レコードからCDへの過渡期ということもあって、レコード会社からたくさん録音のお仕事をいただいたのです。そしてそれが幸いにも、フランスやアメリカの音楽誌でその年のベスト・ディスクに選ばれるようなことが続きました。

もともと日本を出て30年はドイツで頑張ろうと思っていましたが、30年が経った5年前からは、NHK交響楽団や新日本フィルハーモニー交響楽団など、日本の主要な楽団とも仕事をするようになりました。歴史的建造物の保存を支援するためのチャリティコンサートという東京都のプロジェクトに関わったり、ドイツの演奏家たちを来日させて愛知県豊橋市の中高生350人に教えるオーケストラキャンプで音楽監督をしたり、最近は日本での仕事も増えてきています。


指揮者 浮ヶ谷孝夫さん  

後編のインタビューから

-チャンスをつかむのに大切なのは「できるまでやること」と「願うこと」
-浮ヶ谷さんが考える「いくらあっても荷物にならないモノ」とは?
-「圧倒的な感動」を与えられる指揮者になりたい

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