「媒介者」としてクリエイティブな翻訳・通訳の可能性を探る
札幌国際芸術祭でのコミュニケーションデザイン ディレクターとしての活動風景(一番右) |
私が名乗っている「アート・トランスレータ―」とは、簡単にいえばアート専門の通訳・翻訳をする職業です。もちろん通訳・翻訳は従来からある仕事ですが、アートの中でもトランスレーターの役割を認識してほしいという思いを込めて、自らこう名付けました。通訳・翻訳は正確性が重要視されますが、アートの世界では言葉を伝える過程にも創造性を発揮して工夫する余地があると考え、その可能性を仲間と探っています。
具体的には、現代アートをベースに、海外アーティストの来日時に開催するトークショーで通訳をしたり、展覧会のカタログやアート関連の記事を翻訳したりしています。日本語の表現ではこだわっているのに、外国語は得意でないからと、訳者にお任せのアーティストも少なくありません。しかし言語がわからなくても、アーティストとトランスレーターが協働すれば、単純に言語を変換する作業ではなく、どうしたら表現としておもしろくなるか、伝え方自体も考えていける可能性があります。アーティストにとっても表現の幅が広がり、トランスレーターにとってもやりがいが増えると思っています。
ところで、「現代アート」には難しいイメージがあるかもしれません。たしかに建築や演劇などさまざまな分野を横断して表現することや、作品の題材も「5世紀の音楽」や「難民問題」など幅広く、パッとみて「わからない」と思うのは当たり前です。ですから見てすぐに理解できないことを気にする必要はありません。
ではどう見ればいいのかというと、「謎解き」だと思って作品を見てみてください。そこにあるのは、わかりやすい答えではなく、何かの「提案」や「問いかけ」です。ヒントは作家の出身地や年齢にもあります。たとえば60年代のアメリカで作られた作品だったら、ヒッピー活動に影響を受けているかもしれません。「世界をこんな風に見る方法があったのか」「人の喜びや苦しみをこう表現するのか」と、体が震えるほどの感動があります。
問題提起をするには、わかりやすい言葉で伝えることが効率的と思うかもしれませんが、アートによって伝わったときの力はとても大きい。頭での理解を超えて経験や感覚に訴える力があり、その記憶が心の支えになったり、数年後によみがえってきたりします。そういったアートならではの作用は、とても重要だと思っています。
アートの魅力にはまったのはスイスの高校時代
現代アートの分野では、社会的な興味をテーマにするアーティストが多いので、私自身、世界で何が起っているか常にアンテナを張っておくことを意識しています。さらに、通訳や翻訳をするたび、そのアーティストが扱っている分野を学ぶことも必要です。最近では宇宙をテーマにしているアーティストの記事を和訳する機会があり、いろんな星の名前を調べました。毎回さまざまなことを学ぶのは大変ですが、おもしろいですね。
例えばアーティストが来日してトークをするとき、私が通訳できなければ、せっかくのアーティストの言葉は私の中で死んでしまいますから、すごく責任を伴う仕事です。同時に、アーティストの代わりに言葉をつむぐということは、いかようにもできてしまうということ。そういう力をもってしまっている仕事だということを自覚しながら覚悟をもって活動しています。
でも、小さい頃からアートに関係する仕事をしたいと思っていたわけではありません。たしかに小さい頃から絵を描くのは大好きで、小中学校時代は美術部に所属していましたが、小笠原諸島で野生のイルカと泳いだ経験から、イルカが大好きになり海洋生物学者になることが夢でした。
私が美術の魅力にはまったのは、スイスに留学した高校時代です。美術の授業で、自分で決めたテーマを2年間かけてじっくり調べて作品づくりをしたのがとてもおもしろくて。またスイスはヨーロッパの真ん中に位置しているので、周囲のさまざまな国へ行き、世界トップクラスの美術館や教会を見て回る機会に恵まれたことも、大きく影響しています。
両親は私をアメリカの大学に進学させたいという希望があり、私は中1の頃から毎夏、海外のサマースクールへ派遣されました。その中の1校であるスイスの高校に進学したわけです。私は友人と同じ日本の高校に進みたくて、泣いて抵抗したほどですが、行ってみたら楽しくて。この留学が今の仕事に大きく影響したので、両親には感謝しています。
両親とも自分の好きなことを仕事にしており、とくに父は、それまでになかった職業を仕事として始めたので、私は「今ない職業を自分でつくれ」「サラリーマンにはなるな」「一生続けられる仕事を」と言われて育ちました。結局そのとおりになっているのですが、当時は「今ある職業ではダメなのか」と、どんな仕事をしたらいいのか、20代後半まで悩んでいたほどです。
公文式で得た「やればできる」経験が自信に
タフツ大学卒業時 |
公文式の教室に通うようなったのは小学3年生のときです。私の集中力が落ちたかも、と心配した母の勧めでした。体験してみたら解けるのが楽しくて、中1で引っ越しするまで続けました。負けず嫌いだった私には、やればやるほど先に進むシステムが合っていたのだと思います。学校でまだ習っていない難しい内容が学べるのも楽しく、「マイナスの概念」を初めて教えてもらったのも公文の先生からでした。高校教材くらいまで進み、因数分解にもハマリました。
先生は干渉しすぎず、でも、わからないところがあると丁寧に教えてくれました。「ちゃんとやりなさい」などと言われるとやる気がなくなるものですが、ニコニコ見守ってくれたのがありがたかったです。じつは今年3月、雑誌『AERA』の企画「21世紀をつくるニッポン人名鑑」で私が掲載されたのですが、それを見てくれた先生が、10数年ぶりにわざわざハガキを送ってきてくださいました。驚くと同時に、とてもうれしかったですね。
公文で「自分はやればできる」という経験ができたので、中学高校と進んでいく中で、それが自信につながり、何より勉強への姿勢の支えとなりました。今、仕事をするうえでも自信となっています。
アメリカの大学で最終的に土木工学を学んだのも、公文のおかげで数学好きになったことが影響しています。進学先を選ぶとき、アートスクール(美大)で学ぶよりも、アカデミックに勉強したいと、ボストン郊外にあるタフツ大学に入学し、最初は一般教養学部で学びました。
その後、好きなアートと数学の間にある教科だと考えて、建築系の学部に転部。建築の中でも建築史などの文系よりも、数学を使ったほうが勝負できると土木工学を学ぶことにしました。
とはいえ、卒業後、エンジニアになるとか建築事務所で働くとは考えず、そもそもアメリカで仕事をする気にもならなかったので、一度帰国することに。美術をイチから学び直そうと考え、今度は東京藝術大学先端芸術表現科に入学し、22歳で学部1年生からやり直しました。ここで初めて本格的に現代アートを学ぶことになったのです。
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