両親の影響で外国の人々と
触れる機会があった子ども時代
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私がいま、こうした仕事をしているのは、チャリティ活動を楽しそうにしていた母の影響があるかもしれません。私が育ったのは横浜で、港が近くて外国人も多い土地でした。母は外国の方たちと一緒にバザーなどを企画運営し、その収益で地元の児童養護施設や高齢者施設を支援する「国際婦人会」という団体で活動していました。
支援そのものにも関心がありましたが、企画運営を楽しそうに行うおばさまたちの活発な姿が印象に残っています。私も手伝うことがあり、母が英語を使っていろんな国の人とおしゃべりしている姿に憧れました。
でも、その頃の私の夢は、じつは「ムツゴロウ動物王国の飼育係」。動物が大好きだったんです。ファンタジーや冒険物語を読むこと、お話を想像して絵を描くのも好きでした。一方で、友だちと自転車に乗って遠くまで行ったり、貝塚の「化石堀り」にはまって工事現場で発掘ごっこをして怒られたり。時間がいくらでもあって、自由な子ども時代でした。
勉強の方は、小4の時に算数でつまずきました。水ぼうそうにかかって1週間学校を休んだら算数がまったくわからなくなり、5年生で完全に算数嫌いに。ちょうど近所に公文式教室ができて、母のすすめで通うようになりました。最初は簡単すぎると感じましたが、苦手意識をもっていた算数がスラスラ解けるようになり、どんどん進ませてもらえるので、通うのが楽しくなりました。大きな花丸もうれしかったです。3年間ほど続け、難しい問題でもシンプルに筋道を立てることで解決の糸口が見えるということを学び、粘り強さを身につけられたと思います。
中学で英語に触れてからは、一貫して海外とのつながりのある仕事がしたいと思っていました。大学で化学を研究していた父が留学生をわが家に招いていたこと、母の活動の手伝いでいろんな国の人と触れ合ったことで、「自分とは違う環境の人がいる」ことを肌で知り、「英語ができれば、外国の人とおしゃべりができるんだ」と、英語を一生懸命勉強するようになりました。
外資系企業勤務から国連UNHCR協会に転職したきっかけとなったある方の一言とは?