“Nobody Left Outside”を合言葉に
支援が必要な人びとに寄り添う
![]() ©UNHCR/Ivor Prickett |
今、世界ではシリアや南スーダン、イエメンなど各地で紛争が多発しており、多くの人が故郷を追われています。国連機関のひとつであるUNHCRは、こうした紛争や、宗教・国籍・政治的な意見が違うことによる迫害などが原因で、国外に避難しなくてはならない「難民」と呼ばれる人々、また同じ理由で国内で避難生活を送る「国内避難民」と呼ばれる人々を保護・支援しています。
2016年からは“Nobody Left Outside”(誰も取り残さない)という世界的なキャンペーンを開始し、難民のためのシェルター提供のための資金援助を呼びかけています。シェルターの概念にはテントや仮設住居、都市部に居住する難民・避難民のための家賃補助などさまざまな形が含まれますが、いずれも人が暴力や迫害による肉体的・精神的ダメージから回復し、未来を考え始めるために必要な基盤となるものです。
こうした活動を支えるには人と資金が必要です。日本にはそのための機関が2つあります。ひとつは国連機関である「UNHCR駐日事務所」。主に日本政府との窓口を務めています。もうひとつが、私が所属する「国連UNHCR協会」です。UNHCRの民間向け公式支援窓口として、UNHCRの活動や難民問題を知っていただくための広報活動をしたり、日本の個人や企業・団体などに支援を呼びかけたりしています。UNHCR駐日事務所と国連UNHCR協会は、情報を共有し、緊密に連携して業務にあたっています。
国連UNHCR協会の中で、私は日本の企業や団体などに対して、支援のお声がけをするチームに所属しています。企業による支援の形は、資金提供に限らず、難民の雇用や、本業を活かした事業協力や広報協力などさまざまです。
たとえばユニクロを運営するファーストリテイリングでは、2006年から「全商品リサイクル活動」を通じて回収した衣料を世界中の難民・避難民に届けています。札幌に本社を構える富士メガネは1983年から社員による「海外難民視力支援ミッション」を通じて難民の視力検査と眼鏡の寄贈を続けています。
近年、日本では多くの企業がCSR(企業の社会的責任)やCSV(共通価値の創造)への対応を積極的に行っています。そういった部署への働きかけを通して、難民問題を一緒に考え、行動していきませんか、とご提案するのが私の主な仕事です。
両親の影響で外国の人々と
触れる機会があった子ども時代
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私がいま、こうした仕事をしているのは、チャリティ活動を楽しそうにしていた母の影響があるかもしれません。私が育ったのは横浜で、港が近くて外国人も多い土地でした。母は外国の方たちと一緒にバザーなどを企画運営し、その収益で地元の児童養護施設や高齢者施設を支援する「国際婦人会」という団体で活動していました。
支援そのものにも関心がありましたが、企画運営を楽しそうに行うおばさまたちの活発な姿が印象に残っています。私も手伝うことがあり、母が英語を使っていろんな国の人とおしゃべりしている姿に憧れました。
でも、その頃の私の夢は、じつは「ムツゴロウ動物王国の飼育係」。動物が大好きだったんです。ファンタジーや冒険物語を読むこと、お話を想像して絵を描くのも好きでした。一方で、友だちと自転車に乗って遠くまで行ったり、貝塚の「化石堀り」にはまって工事現場で発掘ごっこをして怒られたり。時間がいくらでもあって、自由な子ども時代でした。
勉強の方は、小4の時に算数でつまずきました。水ぼうそうにかかって1週間学校を休んだら算数がまったくわからなくなり、5年生で完全に算数嫌いに。ちょうど近所に公文式教室ができて、母のすすめで通うようになりました。最初は簡単すぎると感じましたが、苦手意識をもっていた算数がスラスラ解けるようになり、どんどん進ませてもらえるので、通うのが楽しくなりました。大きな花丸もうれしかったです。3年間ほど続け、難しい問題でもシンプルに筋道を立てることで解決の糸口が見えるということを学び、粘り強さを身につけられたと思います。
中学で英語に触れてからは、一貫して海外とのつながりのある仕事がしたいと思っていました。大学で化学を研究していた父が留学生をわが家に招いていたこと、母の活動の手伝いでいろんな国の人と触れ合ったことで、「自分とは違う環境の人がいる」ことを肌で知り、「英語ができれば、外国の人とおしゃべりができるんだ」と、英語を一生懸命勉強するようになりました。
外資系企業勤務から国連UNHCR協会に転職したきっかけとなったある方の一言とは?
習い事のアルトサックスの
師匠からの一言が転職を後押し
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大学は社会学専攻に進みました。この頃は「社会の仕組み」や「人と社会」に関心があり、ジャーナリストに憧れていたんです。大学2年生の時、初めての海外旅行で2週間ほどシルクロードをまわって世界の広さを実感したり、その後アメリカの大学に短期留学した経験から、「就職後も世界への目線を失いたくない」と感じました。
結果的に外資系金融機関に4年間勤務し、社会人としての基礎や仕事の進め方を徹底的に叩き込まれました。ここでは企業の合併吸収の提案書作成などを担当し、事業運営のポイントを学ぶことができました。「企業ニーズの見極め」が必要な今の仕事にも役立っていると感じます。
仕事は好きでしたが、とにかくハードで忙しい。深夜まで仕事をする毎日だったこともあり、結婚を機にいったん退職しました。その後、子育てが一段落した頃、いくつかの外資系企業勤務を経て、2014年に国連UNHCR協会に転職しました。
なぜ、国連UNHCR協会に移ったかというと、趣味で続けているアルトサックスの師匠の一言に背中を押されたのがきっかけでした。仕事の話をしたら「あなたはずっと、お金持ちをもっとお金持ちにするための仕事をしてきたんだね」と言われたんです。より根源的なところで、「人の役に立つ仕事がしたい」と思いつつ、行動できていなかった私にとって、この言葉はずっと心に引っ掛かることになりました。そんなある時、国連UNHCR協会が、「企業向けの支援呼びかけの担当者」を募集していることを知り、応募したんです。
関連リンク
国連UNHCR協会第12回UNHCR難民映画祭公式サイト
![]() | 後編のインタビューから -外資系企業と国連UNHCR、仕事をする上でどちらにも共通することとは? |