社会はどう変わるかわからない「知的好奇心を持続できる人」が強く生き残る
大学院に入って、真剣に建築を学ぶようになったぼくが博士論文に選んだのは、誰も手掛けていなかった「日本の新宗教」でした。思想や哲学と建築とのつながりを論考したものです。その頃、ぼくは建築評論雑誌に文章を書いたりもしていて、批評にも関心があったので、そうした視点も盛り込みました。ラッキーなことに、この博士論文は完成前に書籍化が決まり、『新宗教と巨大建築』(講談社現代新書*)というタイトルで出版されました。
*現在はちくま学芸文庫より『新編 新宗教と巨大建築』として刊行
結局、博士課程を5年、研究生を3年やったのち、2002年に中部大学工学部建築学科講師に就任しました。博士時代に非常勤講師などを兼務したりしましたが、ここで初めてきちんとお給料をもらえるようになったんです(苦笑)。このとき35歳になっていました。
その後、2005年に東北大学の准教授になり、現在は教授として学部生も院生も教えています。学部生には建築の基本的な知識を講義して、習得させるようにしていますが、院生には繰り返しはやらず、毎年違うテーマで発表をしてもらいます。ぼくは方向性を示すことはありますが、研究室では基本的には学生がテーマを見つけて、一緒に学び合う場としています。例えば駅舎についての修士論文を書きたいという学生がいたので「戦後間もなく国鉄(当時)が自らつくったモダニズムの駅舎があるんだけど、素晴らしいのにほとんど評価されていないんだよ」といった「入口」をつくってあげたら、そこから学生自らどんどん調べていって結果的に私も勉強になった、というように。自分たちで問題設定をしてどう解決するかが大事ですし、ぼくが知っていることだけだとぼく自身が面白くありませんから。
学生を含め若い人たちには、知的好奇心を持続してもらいたいと思います。それはぼくも取り組み続けていることですが、難しいことでもあります。でもこの先、社会はどう変わるかわかりません。そのときに強いのは、知的好奇心を持続できる人だと思います。
建築史・建築批評家が芸術監督に自分の可能性を信じて未経験のことにチャレンジする
あいちトリエンナーレ2013の展示風景 打開連合設計事務所 《長者町ブループリント》2013 photo:怡土鉄夫 |
あいちトリエンナーレ2013の展示風景 リゴ23 《Looking at 2013 from 1952 Nagoya》2013 photo:怡土鉄夫 |
もうひとつ、ぼくは何でも面白がるようにしています。たとえば、ぼくは原稿を書くことが多くて、出版社の編集者からさまざまな依頼を受けますが、できる限り引き受けます。自分でそれができるかわからないけれど、編集者はできると思ってぼくに依頼している、つまり、ぼく自身が気づいていない可能性に気づいてくれているわけですから。未経験のことをやるのは、心配や不安もありますが、むしろチャンスなのです。
そうして引き受けているうちに、ぼくの仕事はどんどん拡散していきます。その代表的なひとつが、愛知県で行われる国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2013」の芸術監督でした。これは現代美術以外に、演劇、ダンス、オペラをはじめ、街中にアーティストの作品を展示したりするもので、建築というよりはアートのジャンル。ぼくのような立場で監督するのは珍しいと思います。ぼくがやるからには建築的な要素を入れたくて、たとえばオペラでは、建築に詳しい演出家に依頼し、日本家屋の現代的な解釈を行い、高さ7メートルを超す障子が動くなど、空間を工夫しました。
また、名古屋と岡崎では、街中にあるいろんな場所を展示会場に使いました。なかでも長者町という繊維街は、繊維業が盛んだったころは賑わっていましたが、現在は空きビルが目立つエリア。逆にそういうところにアートが入り込む余地があり、空いたところに現代アートを展示しました。すると、そこに人が来て、街が賑わい、また人が来る。長者町の場合、その後、若者向けの店ができるなど、不動産的な価値も上がったようです。
美術館のハコの中だけだと、守られた領域での展示となりますが、外に出ると街と直接かかわりが持て、いろんな可能性が出てきます。美術館はどんな作品が来ても大丈夫なようなつくりですが、街の中にある建物は均一でなくて、それぞれの歴史など、いろんなものを背負っている。そうした特性を考えながら場所を活かすのがおもしろかったですね。使われなくなった場所をあえて活用することで、街を再発見することができて、まちづくりの提議にもなったと思います。
こうして考えると、自分のジャンルは建築だったのに、いつのまにか両親と同じ美術にも関わるようになっています。不思議ですよね。
より多くの人に「建築はおもしろい」と思ってもらいたい
「好きなことを一生懸命やればいい」――それがぼくから子どもたちへのメッセージです。好きなことを突きつめていけば、限界もわかりますし、別の道に行ったとしても、役に立つのではないかと思います。ぼくの場合は音楽でした。そこで表現することについてまじめに考えて、それを文章にしたり、系統立てて説明したりしていたことが、建築というジャンルにシフトして、いまにつながっています。
ぼくはいま、新聞の書評委員や映画のコメンテーターも務めるなど、いろいろな仕事をしています。インターネットサイト「cakes」では、「日本建築論」の連載をしており、日本的なものと建築の関係について考えています。これは今後ぼくが力を入れていきたいと思っていることで、書籍化の予定もあります。
2008年には、仲間と一緒にインターネットラジオ番組「建築系ラジオ」をはじめました。建築に関するさまざまな話題を音声という形で発信する、新しい建築メディアで、建築家インタビューなど多彩なプログラムを展開しています。
ぼくがこうしていろいろなことをしている根底には、より多くの人に「建築はおもしろい!」と思ってもらいたいという思いがあります。日本の建築や建築家は海外での評価は高くても、国内ではあまり知られていない場合も多く、また日本人の建築家でも、ほとんど海外で仕事をしていたりします。彼らが足元の日本で活躍されていないのはもったいないし、建築家がやっている仕事や建築そのものを、もっと一般の方々に「おもしろい」と思ってもらいたい。そのために、これからもいろんな形で発信をしていきたいと考えています。
関連リンク
五十嵐太郎 研究室 | 都市・建築理論
前編のインタビューから – その街の歴史、社会が建物をつくる |