自分の可能性を狭めるようなカテゴリー分けはしなくていい
スイスでの寮生活では、洗濯や掃除はある程度自分でやらねばならないので、自立する準備期間としては良かったと思います。スイスの学校にはヨーロッパ圏から来ている人が多く、基本は英語ですが、ドイツ語もよく使われます。
私は日本で英会話教室に通っていたので多少は英語を話せましたが、やはりスイスの学校に来たばかりのころは苦労しました。とにかく話す機会を持つことが英語の上達法だと思います。
また、留学先の授業についていくための準備としては、英語で理解する前に、その教科のいろんな知識を蓄えておくことが大切だと思います。日本語でいいので概要を学んでおくと、スムーズな授業内容の理解につながり、発言もしやすかったと思います。
よく「海外への興味はいつから?」と聞かれることがあるのですが、答えに困ります。そんな意識はないからです。海外に興味をもつためには「日本」と「海外」と線を引いて考える必要がありますよね。そう考えると、私は明確な線引きをしていなかったと思います。「自分の知っている範囲」に他の国があって、自分が移動するたびにその範囲が広がって、次第にカバーされていく…という感じです。
こうしたカテゴリー分けは、日本では「理系・文系」としても使われていると思います。カテゴリー分けすることは、他人が使うのは認識する上では仕方ないかもしれませんが、自分の可能性を狭めてしまう可能性があるので、自分自身には使わなくていいと思います。
このこと以外にも、日本は年齢で線引きしすぎではないかと気にかかります。もう少し柔軟な選択肢があっていいのではないでしょうか。
私自身は日本とは異なる国で教育を受けられたのは良かったと感じます。日本の教育とスイスの教育とでは何が違うのかというと、社会に最適化しようとしているか、していないか、のように感じます。
日本は知識の習得に重きを置いていますね。スイスやイギリスでも暗記学習はしますが、日本のほうがずっと量が多く、「よく知っているな」「詳しいな」と感じますね。ただそれが社会につながっているかというと、どうなのかな?と。逆にスイスなどでは、「知識を使っている」と感じます。
国際バカロレアの試験では、一問一答もありますが、文章形式で解答するテストの方が多いです。「事前知識を元に自分の文章で伝える」という能力を見ているのでしょう。
例えば歴史の授業では、国際バカロレアでは第一次・第二次世界大戦とその後を中心的に学びます。今の社会を形成しているバックグラウンドを知ることに重きを置いていて、それが「我々が今も歴史を作っている」という当事者意識につながっているように感じます。
一方、日本では古代から歴史を学びますよね。古代史から勉強することは、人類の起源を知るということにおいてはとても重要だと思います。しかし、こういった物語性(ナラティブ)の視点が欠けてしまっている(少なくともあまり生徒に伝わっていない)ことが残念だと思います。
歴史の流れの中に我々がいるという感覚は、当事者意識にも通じると思うので、世界大戦を中心に学ぼうと古代史から学ぼうと変わらないのかもしれません。
「今できること」に着実に取り組めば、結果は後からついてくる
大学はイギリスのUniversity College Londonに進み、化学を専攻しました。日本を含め他国の大学は受験していません。イギリスの大学に決めたのは、教養課程がなく、すぐに専門的な学習が始まること、そして4年間で修士号まで取得できることが理由です。
実は専攻については、化学か美術かで悩みました。最終的に化学にしたのは、美術は自分で自由に絵を描いたりできるけれど、化学は研究室が必要だから大学でないと学べないと考えたからです。しかし、実際に大学に入ってみると、大学での学びはもちろん楽しかったのですが、研究する上では細分化されすぎてしまうことが、自分の志向ではないかもと気づきました。
私は、かっこよくいうとビジョン重視というか、物事をどう整理していくか、構造的な物の見方をするのが好きだということがわかったんです。ちなみに私は今でも、この世で触れるものすべてが載っている元素周期表や、世界が一覧できる世界地図を眺めるのが好きです。
コロナ禍で帰国したことを機に、日本で仕事を探しました。日本は自分のルーツであり、恵まれた生活を送ってきたとの自覚があるので、今度は自分が日本社会に還元したいと考え、今の仕事に就いています。
私は目標や希望が何であれ、今できることしかできないので、「今できること」を着実にしていくのが一番の近道だと考えています。そうすれば、「結果は後からついてくる」という考え方が好きです。
そう思うようになったのは、私が大学受験で大変だった時に、祖母が「なるようにしかならんからなあ」と言っていたことが影響しています。「なるほど、そういう考えもあるな」と感じ入りました。
ただ祖母は、私にはそう言っていたものの、実際はものすごく心配していたことを、後で知りました。祖母は、住んでいる岡山県からわざわざ香川県にあるお寺まで行って、お祈りをしてくれていたのです。このことは私にはプレッシャーになるからと言わないでいたそうで、祖母の思いやりをうれしく感じました。
実際、先のことを心配しすぎると、結局何もできなくなったりします。「目的に向かって一直線」というのもいいのかもしれませんが、私は道中にある偶然の出会いを大切にしたいと思っています。ふわふわしていると「これでいいのか?」と悩みは尽きませんが、そうして考え続けることが大事だと思います。
自分をよく知って、自分だけの基準を持とう
お子さんや保護者の皆さんへは、「自分をよく知ることが一番大事」だとお伝えしたいです。今の世の中は「触れられるもの」が多様化していますし、選択肢が多いほどよいというのが最近の価値観ですが、その中で何かしらの基準は必要です。
自分自身から乖離しないで、なおかつ柔軟に変化できる、いろんな基準を内包できるのは自分しかないと思います。自分を知ることで自身の基盤がしっかりでき、そうしてようやく「不可解な他者」に向き合えるのではないでしょうか。
「不可解な相手」や「わからないこと」に対して恐れるのは仕方がないですが、それが攻撃や排斥に向かってしまうのは虚しいことだと思います。「わからないから攻撃する」のではなく、わからないなりに自分とは異なる相手を受け入れて、対峙していくことが大切ではないかと思います。
「自分が何を知っているのか」「相手が何を知らないか」「自分にとって何が大事か」、そうしたことを知らないと、流行を追うことに終始してしまいます。「流行していること」が好きならいいですが、なんとなく流されているのはもったいないですよね。
自分を知る方法ですか?「好きなものを集めて、抽象化した共通項を見つける」「自分の考え方の特性を知る(画像で考えるか・言葉で考えるか、リスクを考えるか・物事のポジティブな面を考えるか)」などを記録していくのは役に立つと思います。私は一貫した目標を立てるのが得意ではなくて、目標や目的を意識しない方が頑張れるタイプだと自覚しています。ですから、今後も自分の興味の赴くままに、いろいろ勉強したいと思っています。
「役に立つ」「お金になる」と考えると、逆に可能性が狭められるような気がしています。それよりも「これ、好きだからやってみよう」という好奇心の赴くままに探求していく世界はすてきだなと思います。
最近は「3Dモデリング」に興味があり、作品を制作中です。今日はこの取材後、デッサン教室にも行く予定です。幼い頃にしていた創作を、形を変えてしていると言えますね。ほかにもスイス留学をサポートする会社で副業的にお手伝いもしています。そこでもまた新しいことが広がっていけたらなと期待しています。
例えば、学ぶにあたって奨学金や補助金を得るというのは大事ですが、その目的に最適化しすぎて、「新しいことを知る」という楽しさが犠牲になってしまうのは、残念なことです。「新しいこと」を知ったことで、ものごとの見方が変わってくることは学びの醍醐味です。初心を忘れないように、これからもいろんなことを学び続けたいと思っています。
前編のインタビューから -科学や研究でスイスと日本をつなぐ架け橋に |