言葉もわからずフランスへ
「来なければよかった」と後悔の日々
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上京して食べ歩いていたとき、あるケーキがものすごくおいしくて、この人のもとで働きたいと思いました。それをつくっていたのが、当時「オテル・ドゥ・ミクニ」の菓子部門のシェフを務めていた寺井則彦さん。わたしの師匠です。人を募集していないか店に電話をしたら、運良く募集中だったこともあり、そこで働き始めることになります。
その後、師匠の独立開業に伴い、わたしも店を移ります。一方で、お菓子の本場フランスで学びたいという思いが募り、しばらくして師匠に頭を下げてお願いし、29歳で渡仏しました。当時は日本に帰ってくるつもりはなく、家財道具もすべて売り払って行きました。
フランスでの滞在先は、ドイツにほど近いロレーヌ地方のジャルニーという、スーパーが夕方6時には閉まってしまう小さな田舎町。フランス語もまったくわかりませんでしたが、語学学校などには行かず、いきなり店で働くことに。その店は地域の人気店で、すごく忙しかったですね。店の近くのアパートに住み、朝5時から夜10時まで、ときには夜中の2時から働くこともありましたが、お菓子づくりを学べることが楽しくて苦にはなりませんでした。
でも、じつは最初の1か月は「来るんじゃなかった」と後悔ばかり……。言葉ができないから若い子にもバカにされて、悔しい思いをたくさんしました。ただ、日本で働いていたときも、仕事道具や配合などはすべてフランス語だったので、そこはなんとかなりました。また、調理の作業なら「このタイミングで生クリームを入れる」とか、雰囲気でわかることもあります。
一緒に組んだ同僚が単語を一つひとつ指して教えてくれたり、知らない言葉が出てきたらメモして後から調べたりして、徐々に言葉を覚えていきました。最初は同僚も「日本人の女が何だ?」といった感じでしたが、フランス語も少しずつ覚えて次第に打ち解けるようになりました。
そうして仕事も認められ、お菓子の開発も任されるようになりました。当時は家に帰ってもやることがなかったのでずっとお菓子づくりに向き合って、とても充実した修業生活になりました。
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後編のインタビューから -ルクセンブルクの修業時代 |