会話をすることだけが「英語を使う」ことではない
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日本の英語教育に対しては、「中学・高校の6年間、小学校を入れるともっと、習ってきたのに使えない」とよくいわれます。これは、いつかは「使える」と思って、ひらすら知識として勉強だけして、実際に「使わない」から、使えないのです。ここでいう、「使う」というのは、なにも日常会話をすることだけではありません。目的を定め、その実現のために英語を用いる工夫をすれば、「使う」ことになります。例えば、日本文化を外国の人に説明する文章を英語で書く、社会科で学んだ世界の貧困について英語の文献を読む。教育の問題について英語で発表して海外の人と意見を交わす。これらもすべて、立派な「使う」ことになるのです。
英語を知識としてため込むだけで終わっていては、あまりにももったいない。スポーツのクラブがあるように、英語を使ったプロジェクト活動が放課後に行われるなどすると、英語学習もうまく行くようになるかもしれませんね。そうして使っていく中で、「文法事項、たとえば関係代名詞は、こんな時に使うのだ」、「このように音が変化するので聞きづらいのだな」などと、気づいていけば良いのです。
文法知識が身についていれば、論文も書けますし、文章も読めるようになります。そのため、私は文法を学ぶことを否定するつもりはありません。ただ、何のために文法を学ぶのかは、よくよく考えて欲しい。ある目標を達成するために必要があるから、そのために手段として文法を学ぶのだ、という考え方は忘れないで欲しいですね。
コミュニケーションについては、できれば英語ネイティブ話者だけでなく、例えばアジアの人たちなどと交流する手段として英語を使うようにすると良いですね。これを通して、「お互いの言語や文化を学び合おう」となればもっと望ましい。英語だけ学んでいたらそれで良いという考え方を持つと、視野が狭まくなるうえに、考え方の柔軟性までも失ってしまいます。2020年度から小学校5、6年生で英語が正式な教科になりますが、このような意味で、「英語だけ」でよいのかは少し疑問です。ほんの入門でも構わないので、様々な言葉に触れるチャンスを与えてあげたいと思います。
大学入試では、民間のテストなどを利用して、4技能(読む・聞く・話す・書く)を測定する方向となっています。これをきっかけに、技能間のバランスのとれた英語学習や、「聞いて話す」「読んで書く」のように、複数の技能が統合された英語学習が進むのなら、これは良いことだと思います。単に会話ができればそれで良い、というのは健全な考え方とはいえません。それぞれの大学や学部が、自分たちの教育目標にどの技能が、あるいは技能の組み合わせがもっとも必要かを考えて、その教育目標にあった試験を選択して利用していけば、おもしろい展開が期待できるのではないかと考えています。